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【クレヨンしんちゃん22年後の物語】成長した「しんのすけ」と「ひまわり」、おなじみのお友達の未来は!?

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非公式:クレヨンしんちゃん都市伝説

クレヨンしんちゃん公式サイト:https://www.shinchan-app.jp/

目次

– クレヨンしんちゃん22年後の物語 –

――ひまわりは眠い目を擦り、ゆっくりと上体を起こした。

「まだ眠いよ……」

「文句言わない。ほら、仕事に遅れるぞ?」

「うぅ……分かったよ……」

不満そうにふてくされ、着替えはじめる。

彼女は去年から会社勤めを始めている。と言っても、朝は弱いし夜更かしも止めない。ちゃんと教育してきたつもりなんだけどな。

がさつで大雑把……ひまわりは、間違いなく母ちゃんの娘だな。

「――お兄ちゃん!行ってきます!」

「こらひまわり!ちゃんと父ちゃん達に挨拶したのか!?」

「えええ!?時間ないよ!」

「時間がないのはお前のせいだろ!ほら!さっさと挨拶する!」

「……分かったよもう!お兄ちゃんは変なとこだけ真面目なんだから!」

ひまわりはスーツ姿のまま、仏壇の前に手を合わせる。

「――お父さん!お母さん!遅刻しそうだけど行ってきます!」

そう叫ぶやいなや、ひまわりは忙しく玄関を飛び出していった。

「……ほんと、騒々しい奴だな……」

窓から走っていくひまわりを見送った後、今度はオラが仏壇の前に座る。

「……父ちゃん、母ちゃん。ひまわりは今日も元気です。――行ってきます」

窓の外から、家の中に暖かい日射しが射し込んでいた。

「――野原くん、この企画の件だが……」

「はい。これはですね……」

会社の中で、オラと係長は、次の企画について話をしていた。

この会社に勤めてもう9年……仕事にもすっかり慣れた。高校卒業と同時に入社したこの会社は、会社の規模は小さいが給料がいい。
おまけに上司も温かみのある人が多く、色々とオラを助けてくれている。

「――あ、もうこんな時間!帰らないと……」

「ああ野原くん!この後、一杯どうかね!」

「あ……すみません係長、これから家でご飯を作らないといけないので……」

「少しくらいいいじゃないか」

「はあ……でも、妹がお腹を空かせて帰りますし……」

「……そうか。キミは、妹さんと二人暮らしだったな……分かった。早く帰ってあげなさい」

「本当にすみません。それでは……」

足早に会社を出て、そのまま家に向かう。その帰りにスーパーに寄り、食材を購入する。
ひまわりは料理が苦手だ。たまに教えるんだが、母ちゃんに似たのか、飽きっぽくてすぐに止めてしまう。
ホント、似なくていいところばかり似るもんだ……

「――ただいまー!」

大きな声を出して、ひまわりが帰って来た。そしてスーツのまま、台所へ駈け込んで来た。

「お兄ちゃんお腹空いた!今日のごはん何!?」

「クリームシチュー。好きだろ?」

「うん!大好き!」

ひまわりは目を輝かせながら、鍋の中を覗きこむ。そして大きく匂いを嗅ぎ、満足そうに息を吐いた。

「こらこら。先に手を洗ってきな。ごはんは、その後だ」

「ええ!?いいじゃんべつに……」

「だ~め!」

「ぶー……」

渋々、手を洗いに行った。これも何度目の光景だろうか。行動が全く進歩しない妹に、少しばかり不安を感じる。
これじゃ、嫁の貰い手もないだろうな。

「いっただっきま~す!」

「いただきます」

今のテーブルを二人で囲み、晩御飯を食べ始める。
普段着に着替えたひまわりは、一心不乱にシチューを食べていた。

「――うん!さすがお兄ちゃん!すっごくおいしい!」

「ありがと。……それより、会社はどうだ?」

「会社?……う~ん、あんまり面白くないかも……」

「そりゃそうだ。会社ってのは、面白くもないところだ。面白くないことをするから、お金を貰ってる。基本だぞ?」

「そうなんだけどね……なんていうか、つまんないの。会社の業績はまあまあなんだけど、先輩に面倒なオバハンがいてね。やたらと、目の敵にしてくるんだぁ……」

「ああ、いるいる、そういうの。……まさかとは思うけど、気にしてんのか?」

「私が気にすると思う?」

「いや全然」

ひまわりは神経が図太いからなぁ……これも、母ちゃんによく似ている。

「ただ、面倒なんだよね、そういうの。嫉妬するのは分かるんだけど、それなら私以上に実績積めばいいだけだし。それをしないで、ただ因縁だけ付けてくるってのが気に入らないんだ」

「……そうか……お前も、大変だな」

「うん。まあね」

あっけらかんと、ひまわりは答える。まったく大変そうには見えないが……

食事を終わったひまわりは、風呂に入る。

「着替え、ここに置いとくぞ」

「は~い」

風呂の中から、籠った声を出すひまわり。ひまわりは、とにかく風呂が長い。
何でも、少しでもカロリーを消費するためとか。無駄な抵抗だと思うんだが……

「……お兄ちゃん?今何か、失礼なこと思わなかった?」

お前はエスパーか……

「……あんまり長風呂するなよ?この前みたいに、のぼせて倒れちまうぞ?」

「ああ!話を誤魔化した!!やっぱり思ってたんだ!!」

……こういう感が鋭いところも、母ちゃんに似てる……。

脱衣所を出ようとした時に、ふと、ひまわりが言ってきた。

「……ところでお兄ちゃん」

「うん――?どうした?」

「お兄ちゃんさ、今年で27だよね?」

「……まあな」

「――結婚とか、考えてないの?」

「………相手がいれば、いつでもしてやるけどな。そういうお前はどうなんだよ」

「私?私は、まだ早いよぉ。だって、まだ22歳だし」

「結婚まではしなくても、付き合ってる男もいないのか?」

「う~ん……言い寄って来る人はいるんだけどね……どれもいまいちというか、パッとしないというか……」

「………」

誰に似たのか、ひまわりは、凄まじくモテるようだ。まあ確かに、顔は兄のオラから見ても、かなり美人の分類に入ると思う。何気にスタイルもいい。
男にモテるのも、仕方ないのかもしれない。

もっとも、純情ピュアってわけではなく、何というか、ザァーッとして、竹を割ったような性格だから、下手に言い寄られてもまるで相手にはしないようだ。
変な男に捕まらない分、安心はしている。

「……まあ、そろそろお前も結婚考えろよ?母ちゃんは、お前くらいの時に結婚してるんだからな」

「それはお兄ちゃんも一緒でしょ?さっさと結婚しないと、一生独身の寂しい人生しか残ってないよ?」

「やかましい。ホラ、早く上がれよ」

オラは、居間に戻った。

風呂に入った後、居間でテレビを見ながら、ぼんやりと昔のことを思い出していた。

――父ちゃんと母ちゃんは、オラが中学の時に事故で他界した。夫婦水入らずで旅行に行く途中のことだ。
それから、秋田と熊本のじいちゃんばあちゃんが、オラとひまわりをそれぞれ引き取る方向で話が進んでいた。

……でも、ひまわりが、オラと離れて暮らすことを激しく抵抗した。
ひまわりにとって、親しい家族は、オラだけだった。

オラまでいなくなってしまう――小学生だったひまわりは、そう思ったのかもしれない。
結局オラとひまわりは、この家で過ごすことになった。

オラはそれまで、色々バカをやっていた。
でも、もう父ちゃん達はいない。ひまわりを育てるのは、オラの役目になる。
それ以降、オラは徹底して父ちゃん、母ちゃんになった。
最初の方、ひまわりが動揺していたのは、今はいい思い出だ。

じいちゃんたちの支えもあって、オラは高校を卒業することが出来た。

それからすぐに就職して、今に至る。
爺ちゃんたちは、大学へ行くように勧めて来た。
でも、それも断った。
いつまでもじいちゃんたちに負担をかけるわけにはいかなかったし、ひまわりの学費も工面しないといけなかった。

その決断に、悔いはない。もっとも、ひまわりも大学に行かずにアルバイトをし始めてしまったから、結局無用な心配だったが。

「……結婚、か……」

ふと、ひまわりに言われたことを思い出した。
結婚と言えば、忘れもしない出来事がある。

……ななこさんの、結婚だ。

オラが小学校の時のことだった。
ななこさんは就職し、同じ職場の男性と結婚した。
とても、いい人だった。その人を見た時、オラは全てを諦めた。この人なら、ななこさんを幸せに出来る――小学生ながら、生意気にも、そんなことを考えていた。

しかしまあ、ひたすら泣きまくったものだ。
そんなオラに、父ちゃんは言った。

『想いが成就することは、人生の中では少ない。人は誰かと出会い、想い、こうして、いつか想いを断ち切らなければならない時が来る。人生ってのは、そうやって繰り返されていくものだ。
――でもな、しんのすけ。大切なのは、その時に、どういう気持ちでいられるかってことだ。
ななこさんは、きっと幸せになる。本当にななこさんの幸せを思うなら、彼女の門出を祝ってやれ。
泣きたいときは、父ちゃんが一緒に泣いてやる。だから、祝ってやれ。それが、お前に出来る、最大の愛情表現だ―――』

そしてななこさんは、結婚した。
今では、二児の母となっている。時々家にも遊びに来る。幸せそうな彼女の笑顔を見ると、こっちまで幸せになる。

憧れは思い出に変わり、思い出はいつまでも心を温めてくれる。
そうやって、人は大きくなる―――

これも、父ちゃんの受け売りだ。

(ひまわりも、いつか結婚するんだろうな……想像も出来ないけど)

ひまわりのことを思うと、思わず笑みが零れた。
どうもオラはひまわりに甘いところがある。たった一人の妹で、大切な家族。オラの、大切な。

今はただ、彼女の幸せを祈りたい。
父ちゃん達が他界した時、ひまわりは塞ぎ込んでしまった。
学校にも行かず、ずっと仏壇の前で泣いていた。

今では、それも嘘のように元気だ。

でもひまわりは、家族がいなくなることにトラウマが残っている。
一度、オラが事故で病院に運ばれた時、泣きながら病院に駈け込んで来た。
病室で眠るオラに、大声で泣きながら『置いてかないで』と叫んでいた。
オラは寝てるだけだったのにな。

今はどうかは分からない。
ただ、彼女を心配させないためにも、オラは元気でいないといけない。

今のところ生活も安定している。
このまま、平穏に暮らせていけば、それ以上に嬉しいことはない。

「……そろそろ寝るかな」

寝室に戻ったオラは、布団に潜った。そして、静かに目を閉じた。

それから数日後、オラはとある居酒屋にいた。

「――かんぱーい!」

そこにいる全員が、高らかにジョッキを掲げる。

「風間くん、海外出張お疲れ様!」

「みんな、ありがとう!」

その日は、風間くんの帰国祝いが催された。
風間くんは、外資系の会社に勤めている。
数年前から海外出張をしていて、先日帰国したばかりだ。

「ホント、風間くんもすっかり一流サラリーマンね」

ねねちゃんが、感慨深そうにそう話す。
彼女は、保育士をしている。そして、オラたちの通っていた、フタバ幼稚園で勤務をしている。
園長先生が、相変わらず強面過ぎると、愚痴を言っていた。ただ、仕事自体は楽しそうだった。

「僕も、いつか風間くんみたいに、夢が叶うといいな……」

少し哀愁を漂わせながら、まさおくんは言う。

彼は今、とある漫画家のアシスタントをしている。かなり厳しい人らしいが、その分画力は上がってるとか。
今はアシスタントをしながら、漫画家デビューを目指し、日々ネームを作っているとか。

「風間くん、凄い」

ぼーちゃんは、チャームポイントの鼻水を垂らしながら、朗らかに笑う。
彼は、何かの研究者のようだ。その詳細は、企業秘密らしい。
ただ、先日研究チームの主任に抜擢されたとか。相変わらず、なんだかんだで、一番しっかりしてる。

「……それにしても、しんのすけもずいぶん真面目になったな」

「そ、そうかな……」

「そうそう。小学校までのしんちゃんからじゃ、到底信じられないくらいだわ」

「そんなに変だったかな……」

「うん。変だった。でも、面白かったけどね」

オラたちは笑い合い、昔話に花を咲かせた。
こうして今でも変わらず昔を語り合える友達がいることは、本当に素晴らしいことだと思った。

「――そろそろ、オラ帰らないと……」

時計を見たオラは、荷物をまとめ始める。
それを見たまさおくんは、残念そうに言ってきた。

「ええ?もう帰っちゃうの?」

「うん。ひまわりのごはん、作らないといけないし」

「あ……そっか、しんちゃんっちって……」

ねねちゃんの呟きで、その場が暗い空気に包まれ始めた。

「別に気にしないでよ。ひまわりと、賑やかに暮らしてるしさ」

「そっか……うん、そうだよな」

「幸せで、何より」

「途中だけどごめんね。風間くん、仕事頑張ってね。じゃ―――」

そしてテーブル席を離れる。

「何かあったら、すぐ言えよ!僕らに出来ることがあるなら、何とかするからさ!」

最後に風間くんが声をかけてきた。
そんな彼らに手を振り、オラは家路についた。

……しかし、順調に見えたオラにも、不景気のあおりが来ることになった。

それから数日後の会社。オフィス内は、ざわついていた。

「……おい、これって……」

「……嘘、だろ……」

皆一様に、掲示板に張り出された通知を凝視する。

そこに記載されていたのは、従業員削減の通知――つまりは、リストラ予告だった。

今のところは小規模のようだ。
各課1~3名が選ばれる。そしてオラがいる部署は、たった一人だ。
しかし、オラの部署には家族持ち世帯が大多数だ。
最近結婚した者、子供が生まれたばかりの者、子供が小学生に入学したばかりの者……それぞれに、それぞれの暮らしがある。

「……課長……」

「……ああ、野原か……」

廊下のソファーに、課長が項垂れて座っていた。オラはその隣に座る。

「……課長、リストラって……」

「……ああ。私に、一人選ぶように言われたよ。まったく、部長も酷なことを言ってくれる。
私に、選べるはずもないじゃないか……みんな、可愛い部下なのに………」

「………」

課長は、目頭を押さえていた。目の下にはクマも見え、頬もやつれているように見える。課長も、かなり悩んでいるようだ。

「……いざとなれば、私が……」

「でも課長、先日お子さんが私立の中学校に入学したばかりじゃないですか……」

「……野原、家庭の事情は、人それぞれだ。誰も辞めたくないに決まってる。それでもな、誰かを選ばないといけない。それならば、いっそ……」

課長は、語尾を弱める。覚悟と迷い……その両方が、課長の中に混在しているようだ。

――そうだ。誰でも、家庭がある。日常がある。その誰かが辞めなければならないなら……それなら……

「……課長……」

「……?」

「……オラが、辞めます」

「な、何を言ってるんだ野原!」

「誰か辞めないといけないなら、オラが辞めます。オラは、まだ結婚していませんし」

「し、しかし!妹さんがいるだろう!?」

「妹は働いていますし、何とかなりますよ。それに、オラまだ若いので、次の仕事も見つけやすいですよ」

「……だ、だが……!!」

「――課長、ここは、オラにカッコつけさせてくださいよ」

「……」

「……」

課長は一度オラの顔を見て、もう一度項垂れた。そして……

「……すまない、野原……すまない……」

課長の声は、震えていた。

オラは分かってる。一番辛いのは、誰かを選ばなければならない課長自身であることを……
だからオラは、あえて笑顔で答えた。

「……いいんですよ、課長。これまで、お世話になりました―――」

課長は、何も答えなかった。
誰もいない廊下には、課長の涙をこらえる声が聞こえていた。

そしてオラは、無職になった――――

「――あれ?」

仕事を出る前のひまわりが、オラの様子を見て疑問符を投げかける。

「お兄ちゃん、今日はかなりゆっくりだね。まだスーツじゃないなんて……」

「え?あ、ああ……すぐ着替えるよ。――それより、急がないとまた遅刻するぞ?」
「――あ!うん!」

ひまわりは食パンを片手に、玄関を飛び出していった。
彼女を見送った後で、オラは仏壇の前に座る。

「……父ちゃん、母ちゃん。オラ、会社辞めちゃったよ。小さい頃、父ちゃんにリストラリストラって冗談で言ってたけど、実際そうなると笑えないね」

仏壇に向け、苦笑いが零れた。

「……でも、今日からでも仕事を探してみるよ。……分かってる。ひまわりには気付かれないようにするから。あいつ、ああ見えて心配性だし……」

そして立ち上がり、いつもよりもゆっくりとスーツを着る。
とにかく、片っ端から面接を受けるしかない。そのどれかが当たれば、それに越したことはない。

大丈夫。きっと、大丈夫だ……

オラは、自分にそう言い聞かせながら、家を出た。

午前中から、色んな企業を周った。
求人案内が出てるところをはじめ、とにかく、直談判した。会社、工場……場所を問わず、とにかく足を運んだ。

……だが、現実は甘くない。
そもそも春先でもない今の時期に、求人があること自体が稀であった。そしてどこも、簡単にはいかない。
どこも同じなんだろう。余裕がないのだ。それに、オラも27歳。うまくいくことの方が、難しかった。

(やっぱり、どこも難しいな。でも、まだ始めたばかりだ……)

そして、オラは街を歩く。仕事を求めるため、乾いた風が吹くビルの隙間を、縫うように歩いて行った。

それから2週間経った。

オラがようやく見つけたのは、小さな工場の作業員だった。

正直、手取りはほんのわずかだ。それでも、働けるだけ運がよかったと言えるのかもしれない。

……しかし、この工場の勤務時間は以前の職場よりも長い。これまで夜7時くらいには家に帰れていたが、帰宅するのはいつも夜11時過ぎなった。
当然、夜ご飯など作る時間はない。

「……お兄ちゃん、最近帰るの遅いね……」

オラにご飯を持って来ながら、ひまわりは呟く。

「……ちょっと、な。働く部署が変わったんだ」

「そうなんだ……なんか、毎日クタクタになってるね」

「まあ、慣れるまでは時間かかるかな……」

ご飯は、ひまわりが作っている。と言っても、冷凍食品が主ではあるが。
それでも作ってくれるだけありがたい。ご飯は水が少なくて固いが、それでも暖かい。

ひまわりに悟られないように、スーツで出勤する。そして仕事場で作業着に着替えるという毎日だ。
はじめ工場長も不思議がっていたが、密かに事情を説明すると、それ以降は何も言わなくなった。

仕事は、かなり労力を使う。
単純な作業ではあるが、一日中立ちっぱなしだ。そこそこパソコンを使えるが、使う機会はほぼない。
流れ作業であるために、オラが遅れれば、後の作業に影響が出る。だから一切気が抜けない。
慣れない作業に、肉体と精神力を酷使し続ける日々は、とてもキツかった。

それでも、今は働くしかない。

休日のある日の朝、オラは目を覚ました。

日頃の疲れからか、体中が痛い。それでも起きて家事をしなければならない。

……だがここで、オラはある匂いに気が付いた。

(この匂いは……味噌汁?)

どこか、懐かしい香りだった。

フラフラした足取りで台所へ行ってみると、そこには鼻歌交じりに料理をするひまわりの姿があった。

「――うん?あ、お兄ちゃん、寝てていいよ」

ひまわりはオラに気付くなり、笑顔でそう言う。

「……お前、味噌汁作れたんだな……」

「し、失礼ね!ちゃんとお母さんから教えてもらってたんですー!」

「母ちゃんから……知らなかったな……」

オラがそう言うと、ひまわりは急に表情を伏せ、寂しそうに呟いた。

「……思い出しちゃうんだ。これ作ってると。――お母さんと、話しながら作ってた時のことを……。だから、いつもは作らないの」

「ひまわり……」

少しの間黙り込んだひまわりは、急に声のトーンを上げた。

「――だから、特別なんだよ?ありがたく思ってよね、お兄ちゃん」

はち切れんばかりの笑顔で、ひまわりはオラの方を見た。

それは、ひまわりなりの誤魔化しなのかもしれない。オラが心配しないための。自分の中の悲しみを大きくしないための。

ひまわりにとっての母ちゃんとの思い出は、暖かいものであると同時に、悲しみの対象でもある。味噌汁を作るということは、その両方を思い出させることになるだろう。
……それでも、彼女はオラのために作ってくれた。だからオラは、それに対して何も言うべきではないんだろうな。

「……いただくよ、味噌汁」

「……うん!」

そしてオラとひまわりは朝食を食べた。
味噌汁は、少し塩辛かった。でも、とても心に沁みた。

朝ご飯を食べた後で、居間でまったりしていたオラとひまわり。
目の前のテレビでは、朝のワイドショーが芸能人のスクープを取り立てていた。
何でも、俳優の藤原ケイジとアンジェラ小梅が、またもや破局したとか。何度目だ、藤原ケイジ。

そんな緩やかに時間が流れる室内に、突如けたたましくドアを叩く音が響き渡った。

「な、なんだ?」

おそるおそる玄関に近付き、ドアを開ける。――と同時に、とある女性が飛び込んで来た。

「――か、匿って、しんのすけ!!」

その女性は、室内に入るなり、ぜえぜえと息を切らしていた。

「む、むさえさん!どうしたんですか……」

オラの問いかけに、ひまわりが反応する。

「え!?むさえおばさんが来たの!?」

「おばさんって言うな!……それより、お茶くれ。喉がカラカラで死にそう……」

何事だろうか……オラとひまわりは目を見合わせた。そして仕方なく、むさえさんにお茶を差し出した。

「――ぷはぁー!生き返ったー!」

コップのお茶を一気に飲み干したむさえさんは、元気に話す。

「……それで?どうしたんですか、むさえさん?」

「え?あ、ああ……ちょっと、避難を……」

むさえさんの言葉に、オラは頭を抱える。もう、何度も聞いてきた言葉だった。

「……またですか。今度はなんですか?お見合いですか?」

「めんどくさそうに言うな!……まあ、父さんがお見合いを勧めてきたのは合ってるけどね……」

むさえさんは、少しばつが悪そうに呟く。

「そりゃそうでしょ。むさえさんも、いい加減結婚しないと」

「そうそう。むさえおばさんもいい歳でしょ?」

オラの言葉に、ひまわりが続く。

「と、歳の話はやめい!それに、おばさんって言うな!――私はいいの!写真に生きるの!」

……むさえさんは、プロの写真家になっていた。
たまに写真展を開いては、そこそこ儲けているらしい。ただ、元来適当な性格もあって、開催は不定期。今では完全に、放浪の写真家となっていた。

腕は認められてるのに、実にもったいないと思う。ただ、これだけ自然体だからこそ、いい写真が撮れるのかもしれない。

芸術家とは、かくも面倒な存在なんだろうな。

「……まあ、身を隠すだけならいいけど。それに、いくら九州のじいちゃんでも、さすがにここにいるなんて……」

プルルル…

突然、家の電話が鳴り始める。

「……まさか……」

「……ひょっとして……」

オラが電話に出た。

「……も、もしもし……」

「――ああ、しんのすけか。九州のじいちゃんたい」

「―――ッ!」

「むさえに伝えてくれんね。――いい加減、諦めて九州に戻れとな。頼んだばい」

そして、電話は切れた。

呆然とするオラに、ドアの陰に隠れたむさえさんがおそるおそる顔を覗かせた。
どうだった?――そう言わんばかりの顔をして、オラに注目する。

オラは静かに、親指を立て、アウトのジェスチャーを取る。

それを見たむさえさんは、一人、ムンクの叫びのような顔をするのだった。

「と、父さんにバレてたとは……」

むさえさんは、居間の中央で項垂れる。

「……まあ、親子ってことじゃないの?」

「さすが九州のじいちゃんね。むさえおばさんの行動パターンを読んでる……」

ひまわりは腕を組みながら、感慨深そうに呟く。

「――こうしちゃいられない!」

むさえさんは、さっさと荷物をまとめて玄関に駆け出した。

「え?もう帰るの?」

「まあね!父さんに居場所がバレてるなら長居は無用」

むさえさんは急いで靴紐を結ぶ。

と、その時――

「――あ、そうだった。はい、しんのすけ」

むさえさんは、オラに封筒を手渡してきた。

「これ……」

「少ないけど、なんか美味しいのでも食べなよ」

むさえさんが渡してきた封筒には、けっこうな額のお金が入っていた。

「……こんなの、受け取れないよ……」

「そう言うなって。親族からの気持ちだから、素直に受け取りなさい。アタシも無名だったころに、散々みさえ姉さんに援助してもらってたしね。それを返してるだけなんだよ。
……それに、しんのすけ達の元気そうな顔を見れたから、それでいいの」

むさえさんは、優しくそう話した。

「……もしかして、むさえさん。オラたちの様子を見に……」

オラの言葉に、むさえさんは照れ臭そうに頬を指でかく。

「……まあ、アンタ達に何かあったら、あの世でみさえ姉さんに合わせる顔がないしね……」

「むさえさん……」

「――そろそろ行かなきゃ!じゃあね!!」

そう言い残すと、むさえさんは出ていった。

「……なんか、カッコよくなったね、むさえおばさん……」

オラの後ろから、ひまわりが呟く。

「……そんなこと言ったら、またむさえさんにどやされるぞ?おばさんって言うなって。
――でも、その通りだな……」

いつもオラたちのことを気にかけてくれているむさえさん。その気持ちには、感謝してもしきれない。
オラとひまわりは、彼女が出ていった玄関に向け、小さく会釈をした。

「――おーいみんな!ちょっといいか!」

工場の中で、工場長が声を上げた。
その声に従業員は手を止め、彼の方を見る。もちろん、オラも例外じゃない。

「今日はうちの工場に、元請けのお偉いさんが視察に来る!しっかり働けよ!」

「うぃー!」

「それだけだ!作業に戻ってくれ!」

工場長が話を終えると、従業員は再び手を動かし始めた。

(元請けのお偉いさんか……難癖でも付けにくるのか?)

心なしか、全員緊張しているようにも見える。何しろ、元請けだしな。下手なことをしていたら、最悪契約を切られる。そうなったら、こんくらいの工場は、あっという間に危機に陥るだろうし。

それからしばらくすると、工場に一人の女性が入って来た。
長い黒髪をした女性だった。スーツを着こなし、毅然として歩く。

彼女は工場長からの説明を受けた後、工場内を見て回る。

そんな彼女の姿を見た従業員は、思わず手を止めていた。

それもそうだろう。何しろその女性は、かなりの美人だった。どこか童顔ではあるが、整った鼻筋、仄かに桃色の唇、きりりとした凛々しい目……その全てが、 美人と呼べるだけのパーツであり、絶妙な配置をしている。彼女の顔を間近で見れば、目の前の作業なんて忘れてしまうだろう。

……だが、どこか見覚えもある。
どこだっただろうか……

「……あら?」

ふと、彼女はオラの顔を注視した。

(やば……なんか問題あったか?)

オラは目の前の作業工程を頭の中で確認する。不備は……ない。
だが彼女は、ツカツカとヒールの音を鳴らせながら、オラの方に近付いてきた。

そしてオラの横に辿り着いた彼女は、オラの顔を覗きこむ。

「……な、なんですか?」

「………」

彼女は何も言わない。ただ黒い瞳を、オラに向けていた。見ていると、何だか吸い込まれそうになる……

――と、その時……

「―――しん…様?」

「……はい?」

女性は、オラにそう話しかけて来た。
その呼び方をする人は、オラの知る限り一人しかいない……それは……

「……もしかして……あい、ちゃん?」

すると彼女は、それまでの凛々しい態度を一変させ、その場で飛び跳ねてはしゃぎ始めた。

「やっぱりそうだ!――そうです!あいです!酢乙女あいです!お久しぶりです!しん様!」

……工場内には、どよめきが走った。

「――はい、あいちゃん」

休憩所の中で、オラはあいちゃんにコーヒーを手渡す。

「ありがとう、しん様」

「このコーヒー、スーパーの特売品だから、あいちゃんの口に合うか分かんないけど……こんなものでゴメンね」

するとあいちゃんは、首を振って笑顔を向けて来た。

「そんなことないです。しん様が入れてくれたものですもの。それだけで心が満たされます」

そしてあいちゃんは、コーヒーをすする。

「……うん。悪くありません」

「ありがとう、あいちゃん。……ところで、そのしん様って呼び方、どうにかならないかな……」

「……嫌、ですか?」

「嫌というか……なんか、恥ずかしいし……」

「………」

しばらく考え込んだあいちゃんは、口を開いた。

「……分かりました。今日からは、しんのすけさんとお呼びいたします」

「助かるよ……」

彼女は、微笑んでいた。そんな彼女に、オラも微笑みを返した。

「――それにしても、このようなところでしん様……失礼、しんのすけさんと再会するとは、夢にも思いませんでした」

「オラもだよ。まさか、この工場の元請けがあいちゃんの会社だったなんて……しかも、あいちゃんが視察に来るとは思いもしなかったよ。世間って狭いね」

「そうですわね。……でも、だからこそ人生とは楽しいのかもしれません」

あいちゃんとオラは、感慨深く話していた。

「……でも、あいちゃんは変わらないね。とても凛々しくて、カッコいいよ」

「そんな、しんのすけさん……それを言うなら、しんのすけさんもですよ」

「オラは……そんなことないよ。だって、昔みたいにバカやってるわけじゃないしね。ガッカリしたでしょ?」

「いいえ!そんなことありません!」

あいちゃんは、語尾を強くしてオラの方に体を向けた。

「確かに、今のしんのすけさんは変わられました。でも、それはいいことなんです。
人は、時間の流れと共に、年齢を重ね、体を変化させていきます。
――ですが、心は違います。
心だけは、成長するか否かは、その人自身にかかってます。若くして立派な心を持つ者もいれば、歳だけを重ねて、いつまでも心を成長させない者もいます。

……しんのすけさんは、きっと前者です。しんのすけさんは、歳相応に心も成長しているんです。
そんなしんのすけさんは、素敵だと思います……」

「あいちゃん……ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ。そんな自覚はないけどね」

「いいえ。しんのすけさんは、やっぱりしんのすけさんですよ。行動が変わっても、それは変わっていません」

あいちゃんは、微笑みながらそう言ってくれた。
そんな彼女の言葉に、どこか救われた気がした。

父ちゃんと母ちゃんがいなくなってから、オラはしっかりしようと思った。
オラがしっかりしないと、ひまわりを育てることが出来ない。そう思っていた。

それでも、オラの中には不安があった。自分はきちんと出来ているだろうか。大人として、ひまわりの手本のとなれるだけの人になっているだろうか。そんなことを考えていた。

そしてあいちゃんは、オラのそんな不安を払拭してくれた。
それが、とても嬉しかった。

「ところでしんのすけさん。あなたは確か、中小企業で働いていたのではありませんか?どうしてこの工場で……」

「ええと……それはね……」

「……あ、もしかして言いにくい事情がおありなんですか?それなら、無理に言う必要はありません」

「……そ、そう?ありがとう、あいちゃ――」

「――こちらで、調べますので……」

「へ?」

「――黒磯」

あいちゃんの呼び掛けに、天井からスーツ姿の黒磯さんが降りて来た。

「―――!?」

黒磯さんは、白髪になっていた。色々と苦労が多いのかもしれない。それでも、その白髪頭は、まるで歴戦の戦士のように見える。なんというか、渋い。
黒磯さんは、オラに深々と一礼した。

「……お久しぶりです、しんのすけさん。お元気でなによりです」

「あ、ああ……黒磯さんも……相変わらずだね……」

「黒磯。至急調べなさい」

「――御意」

あいちゃんの言葉に、黒磯さんは再び天井にロープを投げ、スルスルと昇って行った。
……色々と、レベルアップをしているようだ。

それから十数分後……
「――戻りました、お嬢様……」

今度は床下から這い出てきた黒磯さん。何でもありのようだ……

(ていうか、早すぎるだろ……)

そして黒磯さんは、一枚の紙をあいちゃんに渡す。
それを見たあいちゃんは、目を伏せた。

「……なるほど……こんなことが……しんのすけさんの心中、お察しします」

「察する程でもないって。特に何も考えてなかったからね」

「それでも、人のために行動するその御気持ち……あいは、感動しました!」

あいちゃんは紙を抱き締めながら、天を仰いだ。

「そんな、大袈裟だなぁ……」

するとあいちゃんは、視線をオラに戻す。そして、優しい笑みを浮かべて、切り出した。

「――しんのすけさん、あなたは、今の職場で働いていくおつもりですか?」

「う~ん……まあ、僕がいないと困るだろうし……。それより、なんで?」

「……実は、酢乙女グループの本社ビルで、新しく1名の雇用を募集しているのです」

「酢乙女グループの?」

「そうです。――しんのすけさん。そこに、応募してみませんか?」

「……え?」

「給料は今よりはいいはずです。少々体力を使いますけど……」

「いやいや、それはダメだよ」

「どうしてですか?」

「だって、なんかそれって、卑怯じゃないか。あいちゃんのコネで入るみたいな感じで……」

そう言うと、あいちゃんはフッと笑みを浮かべた。

「しんのすけさんなら、そう言うと思いました。……ですが、その心配には及びませんわ。
その募集自体は、一般に正規に知らせていること。それに、私がするのは、あくまでもそれを紹介しただけにすぎません。結局採用されるかどうかは、しんのすけさん次第なんですよ」

「あ、そういうこと……」

そしてあいちゃんは、表情を落とした。

「……ごめんなさい、しんのすけさん。本当はすぐにでも採用したいのですが……」

「分かってるって。あいちゃんは、そこの重役だしね。知り合いだからって、重要な仕事を無条件に任せるなんてしちゃいけないよ。
――そうだな。でも、せっかくあいちゃんが勧めてくれたから、ダメ元で受けてみるよ」

「……はい!頑張ってください!あいは、信じております!」

そしてオラは、応募した。
――だがその時、オラは知らなかった。オラが応募したそれが、どういう仕事であったのかを……

それから1週間後、オラは酢乙女グループ本社ビルの前にいた。

「ここが……」

摩天楼の真ん中にそびえ立つ、超巨大高層ビル……。見上げると、目眩を起こしそうになる。

「……やっぱ、超巨大企業だよな……」

そして面接、実技を経てしんのすけが合格することとなる。

合格した後に知らされた試験それは……

“あいお嬢様ボディーガード試験”

しんのすけは耳を疑った。

すると、あいちゃんはさも当然のように言う。

「ですから、私のボディーガードを募集する試験ですよ。
――しんのすけさん、今日からあなたは、私のボディーガードですわ」

あいちゃんは、嬉しそうに微笑みかけてきた。

黒磯さんは感激していた。
何でも、ようやくあいちゃんも認める後継者が出来たとか。
黒磯さんに、仕事のいろはを叩きこまれる毎日だった。

(あの人、これをあいちゃんが小さい頃からやってたんだよな……タフなはずだ……)

いずれにしても、給料面はかなり上がった。以前勤めていた会社よりも、ずっと。
だがその分体力を消費するのは否めない。工場よりも、ずっと。

……その時、ひまわりが小さく呟いてきた。

「――お兄ちゃんさ……なんか、私に隠してない?」

「……え?」

ひまわりの方を振り向いた。彼女は、とても辛そうな顔をしていた。

「……隠すって……」

「……私さ、今日、お兄ちゃんの会社に行ったんだよね。久々に、一緒に帰ろうって思って……」

「―――ッ!」

「上司の人に聞いたよ。――お兄ちゃんが、会社を辞めたこと……」

「そ、それは……」

ついに……気付かれてしまった。いずれ言おうと思っていたことだった。だが結果として、秘密にしていたとも言えるだろう。

ひまわりは、とても悲しそうに目を伏せていた。

「……だから言ったじゃん。お兄ちゃん、すぐなんでも背負っちゃうって……。何で私に何も言ってくれないの?
――そんなに、私が信じられない?」

「い、いや……そうじゃなくて……」

「――だったら何!?黙ってれば私のためになると思った!?お兄ちゃんはいつもそう!私に気を使って!!私に黙って!!」

「……」

「……いつも勝手に決めて、何も話してくれない……お兄ちゃんは、私の気持ち考えたことあるの!?」

……ひまわりの叫び声に、室内は静まり返った。

オラは、何も言えなかった。反論すら、出来なかった。

「……もういいよ……!!」

そう言い捨てると、ひまわりは2階の自分の部屋に駆けあがって行った。
オラは、その姿を見ることしか出来なかった。

「……ひまわり……」

「――しんのすけくん、どうかしましたか?」

車を運転してい黒磯さんは、ふいに話しかけて来た。

「え?」

「顔が、落ち込んでいますよ?」

「は、はあ……」

この人は、たぶん人をよく見てるんだと思う。長年この仕事をして培われた、洞察力みたいな。
この人の前だと、隠し事なんて出来ないな――
そう、思った。

「……ちょっと、妹とケンカしまして……」

「妹……ひまわりさんのことですか?」

「はい。隠し事が、ばれちゃったんですよ。心配かけないように黙ってたんですが、逆に心配かけちゃったみたいで……」

「……仕事の、ことですか?」

「……はい」

「………」

黒磯さんは、何かを考えていた。そして、急にハンドルを切る。
それは、本来向かうべき方向とは、違う方向だった。

「……少し、休憩しましょう。この先に、海が見える見晴らしのいい波止場があります。コーヒーくらい、奢りますよ」

「はあ……」

波止場に着いたオラと黒磯さんは車を停め、海を眺める。
手にはコーヒー。
黒磯さんは、タバコを吸い始めた。

「……お嬢様には黙っててくださいね。タバコ、嫌いなんですよ」

「……分かりました」

オラと黒磯さんは、海を眺める。
遠くに見える雲はとても大きく、海鳥の声が耳に響き渡る。潮の香りは、どこか心地いい。

海を眺めながら、黒磯さんは話してきた。

「……私も、妻とケンカしたら、よくここに来るんですよ」

「……上尾先生――ああ、今は、黒磯先生でしたね。奥さんとですか?」

「はい。彼女、メガネを外すと気性が荒いでしょ?だから、しょっちゅう……」

黒磯さんは、照れ臭そうに話す。
黒磯さんと上尾先生は、結婚していた。もう、十数年前の話だ。

確かに、上尾先生はメガネを外すと強気になる。それでも、黒磯さんとは幸せに生活してるようだ。今の黒磯さんの表情が、それを物語る。

「……一緒に暮らしていれば、ケンカの一つや二つくらい、いつでもあります。相手に分かって欲しい。自分の気持ちを、言葉を、相手に伝えたい。
そんな想いが、ぶつかり合うのがケンカですから」

「………」

「ひまわりさんだって、そうじゃありませんか?もちろん、しんのすけくんも。そういう時は、とことん話し合うべきです。
ケンカはしないに越したことはありません。……ですが、たまのケンカは、時にいい方向に転ぶこともあります。
――雨降って地固まる、ですよ」
「………」

すると黒磯さんは、タバコの煙を吐いた後、コーヒーを一口飲んだ。

「……今日は、家に帰ってあげてください。お嬢様には、私から説明しておきます」

「え?でも……」

「ひまわりさんに、よろしく言っておいてください」

黒磯さんは、そう言って笑っていた。サングラスの奥には、優しい眼差しが見えた。
オラは頭を下げて、その日は、家に帰った。

オラは家に帰って、食事の準備をした。
このところ忙しくて、手抜き料理ばかりを作っていた。
だから今日は、ここぞとばかりにひまわりの大好物を用意する。

今日は、とことんひまわりと話す……そう、決めていた。

考えてみれば、オラは、いつまでもひまわりを子供扱いし過ぎていた気がする。
彼女も、もう大人なんだ。
きちんと向き合って、とことん話してみようと思う。

食卓を、二人で囲んで。

「―――遅いな……」

……だが、ひまわりはなかなか帰ってこなかった。チラチラと時計を見るが、いっこうに戻らない。
電話にかけても通じない。彼女から、返信があることもなかった。

(いったい何してるんだよ……もしかして、事故か何かに……)

なんの音沙汰もない時間が、不安を駆り立てる。
しかし、どれだけ待っても、彼女が帰ることはなかった。

――そして、ひまわりが帰らないまま、朝を迎えた。

「……もう朝か……」

朝日が射し込む窓を見て、オラはふと呟く。
本当に、何があったのだろうか……

嫌な記憶が、脳裏に過る。
あの時、真夜中に電話が鳴り響き、変わり果てた父ちゃん達を迎えに行った。
しかし何か起こってるなら、電話があっててもいいはず……

「……帰ったら、こりゃ説教だな」

そう……きっと帰ってくる。
そしてひまわりは言うんだ。
「友達の家にいた」って……

――その時、家の電話が鳴り響いた。

「――ッ!」

一気に、心拍数が上昇したのが分かった。

ヨロヨロと立ち上がり、電話機に向かう。目と鼻の先にあるはずの電話機が、とても遠く感じた。
伸ばす腕が震える。
そして、受話器を耳に当てた……

「……もしもし、野原です……」

「あ!野原さんですか!?」

「は、はい……あの……」

「野原ひまわりさんという方は、ご家族におられますか?」

「はい。僕の妹ですが……」

「――課長!ご家族の方に連絡取れました!」

……その様子は、以前経験したことがあった。

「あ、あの……」

「ああ、失礼。私、◯◯警察署の者ですが――」

「――」

目の前が、真っ白になった。
足の力は抜け、その場に崩れるように座り込んだ。

「大丈夫ですか!?」

「――え?あ、はい……それで、ひまわりは……」

「実は、ひまわりさんが事故に遭いまして……」

「……そ、それで、無事なんでしょうか――」

「……はい。命に別状はありません」

身体中の緊張が、一気に解けた気がした。
だが警察官は、言いにくそうに続けた。

「――命に別状はありませんが……ただ――」

「……え?」

「―――」

「―――」

……それ以降の会話は、よく覚えていない。

ひまわりは、帰る途中に事故に遭ってた。
とにかく、命が無事なら、今はそれでいい。

――ただ……

「……足は、どうだ?」

「……うん。感覚、ないんだ。たぶん、もう歩けないって……」

「そう、か……」

ひまわりは、 腰を、強く打って歩けなくなっていた。

外見上では、彼女は悲観してはいないようだ。
母ちゃん譲りの明るさのおかげだろうか。

それでも、心の内は分からない。

「……あ、そろそろ検診の時間だよ」

「……分かった。後でまた来るよ」

「うん。……お兄ちゃん、ごめんね」

「なんでお前が謝るんだよ。生きてるだけで、本当に良かったよ」

「うん……」

そして、オラは病室を出る。

その直後、病室から、こもった声が聞こえてきた。

「……ひぐっ……ひぐっ……」

「………」

その声に、心は激しく痛む。
でもこれからは、オラがもっと支えないといけない。

そう決心し、ひまわりの声が漏れる病室を後にした。

ひまわりは、しばらく入院することになった。
その間、オラは家の整理をすることにした。

あいちゃんに、事情を説明ししばらく休みを取ることを告げた。
快く了承してくれたことに、本当に感謝してる。

おそらく、これから車椅子が主体となる。
ほんの少しの段差が、彼女にとって大きな障害だろう。

段差という段差に、片っ端からスロープをつける。
問題は、台所と洗面所、浴室だろう。

こればかりは、改築しないと無理だろう。
困り果てていた、その時――

「――ごめんください」

突然、誰かが訪ねてきた。

「はーい……って、あいちゃん?」

「ごきげんよう、しんのすけさん」

そこには、あいちゃんがいた。

「どうしたの、こんなところに……」

するとあいちゃんは、ニコリと笑みを浮かべた。

「我が酢乙女グループでは、介護用品にも力を入れています。その新商品が出来たので、テスト運用をしてもらいたいのです」

「テスト運用?」

「はい。――黒磯」パチン

あいちゃんが指を鳴らすと、家の中に、一台の車椅子が運び込まれた。

「これは……車椅子?」

「はい。ですが、ただの車椅子ではありません。
……百聞は一見にしかず。――黒磯」

「はい……」

彼女の号令に、黒磯さんが車椅子に座る。

「まず、これは内部バッテリーを付けており、軽く車輪を回すだけで、スムーズに移動することが可能なんです」

「へぇ……電動自転車みたいなものか……」

「凄い……でも、なんだか悪いよ」

「それには及びません。先ほども言ったとおり、これはテスト運用です。月に一度レポートを提出してもらいます。
こちらも、貴重な資料にさせてもらいます」

「……分かった。ありがとう、あいちゃん」

「礼には及びません。……しんのすけさん、私に出来ることがあれば、何でも言ってくださいね」

そして、あいちゃんは帰っていった。
こうして、ひまわりを迎える準備は、着々と整いつつあった。

それから、ひまわりの退院の日を迎えた。

「うわぁ……!」

ひまわりは、家の変わりように声を上げる。

家の中は、すっかり変わっていた。
タンスは全て一回り低いものに変え、大概のものが車椅子のままでも手の届く位置に置いた。
まるでリフォームでもしたかのような室内は、久しく家に戻らなかった彼女にとって、新鮮なものだろう。

「これなら、だいぶん過ごしやすくなると思うから」

「……うん。ありがとう」

言葉とは裏腹に、ひまわりからは、さっきまでの元気はなくなっていた。
顔も、どこか辛そうにしている。

「……どうした?」

「……ごめんね、お兄ちゃん。私のせいで、お兄ちゃんに迷惑をかけて……」

「……」

ひまわりは、完全に俯いてしまった。
それは、彼女の心からの言葉なのだろう。

――だからこそ、オラは彼女にデコピンをする。

「ていっ」

「あいたっ!」

ひまわりは、おでこを押さえたまま、目を丸くしてオラを見ていた。

「なに妙な遠慮してんだよ。オラとお前は他人か?」

「……」

「違うだろ。家族だろ。お前の、しょうもない遠慮なんて、オラには通じないからな。
お前が歩けないなら、オラが後ろを押してやる。オラは、お兄ちゃんだからな。
――だからお前も、妙な気を使うなよ」

「……うん……うん……!」

ひまわりは、涙を堪えながらずっと頷いていた。

……そうだ。オラは、ひまわりのお兄ちゃんなんだ。
オラが、ひまわりを支えるんだ。

改めて、そう決意した。

それからの生活は、色々大変だった。
まず、着替えることから大変だったようだ。

そしてトイレも、風呂も、今まで簡単にしていたことさえ、大きな労力を使うものになった。
足が使えないのは、これほどまでに自由が効かなくなるものかと驚く毎日だった。

かといって手伝おうとすれば、エッチだのスケベだの言われて追い返されることもしばしば。
しかしまあ、ひまわりは持ち前のガッツを武器に、少しずつその生活に慣れていった。

最近では、二人でよく買い物に行っている。
オラが車椅子を押して、そしてひまわりは笑うんだ。

皮肉な話かもしれない。
ひまわりが事故に遭う以前より、家族の時間が増え、会話も増えた。

もちろん、これで良かったなんてのは口が裂けても言わないし、思いもしない。これから先、ひまわりは、一生背負うことになるのだから。

――でも、重荷を無くすことは難しいけど、減らすことは出来る。
オラが、減らしてやるんだ。
そして、ひまわりが、その名前のように、いつまでも輝ける太陽であり続けるように、支えていく。

それが、家族ってものだろう。
……そうだよね?父ちゃん、母ちゃん……

――そんな、時期のことだった。

「――それにしても珍しいね。風間くんがオラと飲みたいなんて……」

「まあ……たまには、な……」

街角の居酒屋で、オラと風間くんは酒を交わしていた。

その居酒屋では、仕事帰りのサラリーマンが、その日の疲れを癒すかのように顔を赤くして騒いでいた。
うるさくはあったけど、どこか幸せそうなその喧騒は、不思議と耳に入っても不快感はない。
そんな店の片隅に、オラと風間くんは座っていた。

今日飲みに誘ったのは他でもない。風間くんだった。
しかし彼は、どこか様子がおかしい。
何か、言いたいことでもあるようだ。

しばらくして、風間くんは意を決して言ってきた。

「……しんのすけ。お前に、話さなきゃならないことがあるんだ」

「……どうしたの?改まって……」

風間くんは、もう一度言葉を飲む。

そして、切り出した。

「……実は、あの日ひまちゃんが帰った時、仕事帰りじゃなかったんだ。
――僕と、会った後なんだよ……」

「……どういうこと?」

「それは……つまり……」

風間くんは、もう一度、息を吸い込む。
……それから先は、聞きたくなかった。

「――僕とひまちゃん、付き合ってるんだ」

「……」

店内が、静まり返った気がした。
他の言葉は、音は、何も耳に入らなかった。

「……!」

感情が、昂り始めたのが分かった。
たまらずオラは、乱雑にテーブルの上にお金を置き、店を飛び出した。

「し、しんのすけ!」

風間くんの声が聞こえた。
でもオラは、何も聞きたくなかった。

夜の町のなかを、早足で歩く。一歩でも遠くに行きたかった。

ひまわりは、風間くんと会っていた。
そしてその帰り道、事故に遭った。
――たった一人で、帰る途中に……

「――おい!しんのすけ!」

街中から少し外れた公園で、風間くんはオラに追い付いた。
後ろから、風間くんの息が切れる音が聞こえる。ずっと走ってきたのだろう。

でも今は、顔を見たくなかった。

風間くんは、オラの背中に向けて話しかけてきた。

「……しんのすけ、黙っていたのは悪かったと思う。いつか言おうと思っていたんだ」

「……」

「でも僕は、真剣なんだ!真剣に、ひまちゃんを幸せにしたいんだ!だから――」

「――だから……なんなのさ……!」

「――!」

思わずオラは、風間くんに詰め寄る。そして気が付けば、彼の胸ぐらを掴んでいた。

「……オラが言いたいのは、そんなことじゃない!」

「――ッ!」

「どうしてひまわりを、一人で帰らせたんだよ!どうして、最後まで見送らなかったんだよ!
その帰りに――アンタと会った帰りに、ひまわりは事故に遭ったんだぞ!?
アンタが一緒なら、違ってたかもしれない!
――一生重荷を、背負うこともなかったかもしれないだぞ!?」

「……しんのすけ……」

……分かってる。
彼に、非はない。こんなのは、ただの八つ当たりだ。
それでもオラは、オラの心は、行き場のない怒りを、彼にぶつけるしかなかった。
そうしないと、頭がどうかなりそうだった。

「……ごめん、しんのすけ……」

風間くんは、静かにそう呟いた。
そしてオラは、投げ捨てるように彼の体を解放する。
風間くんは、力なく硬いアスファルトに座り込んでいた。

「……しんのすけ……」

「――止めてくれよ!」

「……!」

「……今は、何も聞きたくない……!」

そう言い捨てたオラは、そのまま公園を立ち去る。
振り返ることなく、風間くんを振り払うように……

家に帰る足取りは、とても重かった。
歩き慣れたはずの道は、とても遠く感じた。
その日は、月明かりが出ていて、道路にオラの影を作っていた。
……でも、その夜は、どこまでも深い闇色に染まっている気がした。

「……」

家には、ひまわりが待っている。
オラの帰りを、待っている。

……それが、途方もなく足を重くしていた。

「……ただいま……」

家に帰りついてしまったオラは、静かに呟く。
すると家の奥から、車椅子の音が聞こえてきた。
……そして、いつもと変わらない様子のひまわりが、玄関にやって来た。

「お兄ちゃん、おかえり」

「あ、ああ……ただいま……」

「今日ね、ご飯作ってみたんだ。車椅子で作るのって大変だったよ」

「そ、そうか……ごめん、先にお風呂入るから……」

「……?う、うん……」

不思議そうな顔をする彼女を尻目に、オラは風呂に入った。

お湯に浸かりながら、ぼんやりと風間くんの言葉を思い出す。
目の前に立ち込める湯気と同じだった。
浮かんでは消え、消えては浮かび……壊れたレコードのように、ただ彼の言葉を繰り返していた。

「……それでね、そのテレビがね……」

ひまわりは、いつもの通り明るくオラに話しかける。
でも、耳に声が届かない。聞きたいのに聞けない。
余裕がないのかもしれない。

「……お兄ちゃん?お兄ちゃん?」

「……え?」

ふと、ひまわりがオラを呼んでいることに気付いた。

「もう~。ちゃんと聞いてる?」

「あ、ああ……ごめん……」

「……」

するとひまわりは、神妙な顔でオラを見てきた。

「……お兄ちゃん、なんか変だよ?何かあった?」

「……」

少しだけ、どうするか悩んだ。

でも、ここで黙ってても、何の意味もないだろう。
風間くんは決意を固めて、オラに言ったんだから……

「……今日、風間くんと会ってたんだ……」

「……え?」

「全部、聞いたよ……」

「……」

室内は、静寂に包まれる。
時計の針だけが、時を忘れないように、懸命に音を鳴らしていた。

「……そっか……聞いたんだ……」

ひまわりは、諦めたように呟く。

「……いつからなんだ?」

「……風間くんが、海外に行く前からだよ」

「ずっと連絡を取ってたのか?」

「……うん」

「そうか……オラに黙って、か……」

「それは!……ごめん」

なぜだろうか。言葉が、止まらなかった。

「……結局、オラは信用されてなかったんだな。
風間くんは幼稚園からの友達、ひまわりは妹……なのに……」

「そ、そんなつもりじゃ……!」

「もういいよ。……今日は、寝る……」

ひまわりの言葉を遮り、オラは二階に上がる。

(……最低だな、オラは……)

二階に上がりながら、今の自分に嫌気が差していた。
自分は、こんなにも醜い人間だったみたいだ。
八つ当たりを、ひまわりにもしてしまった……

それでも、今は眠りたかった。
そしてオラは、夢に逃げた。

「……しんのすけさん、元気がありませんね……」

「え?」

「顔が、憔悴しきってますよ?」

「……うん」

仕事中、あいちゃんにコーヒーを出した時、ふいに彼女が言ってきた。

「……何か、事情がおありなんですね……」

彼女の場合、黙るだけ無駄だろう。すぐに調べられる。

オラは、ことの次第を話した。心の内にある、思いも含めて。

「――なるほど。しんのすけさんも、辛かったでしょ」

「いや、オラがただ、最低なだけだよ……」

「そんなこと、ありません」

あいちゃんは、椅子を回転させ、オラの方を向く。

「人の気持ちというのは、そう簡単に割り切れるものではありません。時には、何かを恨みたくなるときもあるでしょう。
それは、いくら心が強くても、誰にでも起こり得ることなんです。
……ですから、今のしんのすけさんを、私は責めたりしませんし、軽蔑したりもしません。
その辛さは、あなたにしか分からないことなんです」

「……」

「……ですが、風間さんも、ひまわりさんも、しんのすけさんにとって、かけがえのない人ではありませんか?
それは旧来からの友であり、大切な肉親であり……どちらも、しんのすけさんという人にとって、大切な人なんじゃないんですか?」

「……うん」

「でしたら、忘れないで下さいね。
――二人もまた、あなたを大切に思ってることを……」

「……」

「……私が言えるのは、それだけです」

そしてあいちゃんは、仕事に戻った。

彼女の言葉は、とても響いていた。オラの心に、刻み込まれていた……

帰り道、オラは河原の芝生に座り込んでいた。
時刻は黄昏時。鳥たちは誰かに呼びかけるように、鳴き声を出しながらどこかへ飛び去っていた。

ここでどうしようというわけでもない。
昨日あんなことがあって、家に帰るのが気まずいから、時間を潰しているだけだった。

(こんなに心が狭かったんだな、オラ……)

ふと、今の自分に苦笑いが零れた。

あいちゃんの言ったことは、分かってるつもりだ。
全部、オラは分かっていた。

ひまわりの事故で一番責任を感じているのは、おそらく風間くんだろう。
だからこそ、ああしてオラに全てを話してきたんだと思う。

そしてひまわり……
彼女が毎日見せる幸せそうな顔を見れば、風間くんとの付き合いがどういうものかが、自然と分かる。
常に笑顔であった陰には、オラだけじゃなくて、風間くんのおかげであった面も大きいのだろう。

……そんなことは分かってる。分かってるけど、どうしても心の歪みのようなものが取れなかった。
こんなの、オラがただふてくされてるだけだろう。
ホント、子供みたいだ……

「――あれ?しんちゃん?」

「ん?」

後ろから、唐突に話しかけられた。
そこに立っていたのは、ななこお姉さんだった。

「……そっか……そんなことが……」

オラは、ななこさんに愚痴を零すように、全部話した。

もちろん、ななこさんはひまわりが事故に遭ったことを知っていたし、お見舞いにも来ていた。
それでも、一から十までを、ななこさんに話した。
それは、オラの愚痴でもあったし、贖罪でもあった。自分がこれだけ嫌な人間であることを、誰かに聞いてほしかった。

ななこさんは、オラの話を何も言わずに聞いてくれていた。
そして、話し終えたオラに、笑顔を向ける。昔と変わらない、あの頃のままの笑顔を。

「……しんちゃんの気持ち、何となく分かるよ。しんちゃんだって、本当は二人を祝福したいし、風間くんを恨んでなんかいないんだよね?」

「……うん」

「でも、どうしても風間くんとひまわりちゃんに強く当たってしまう……。それはね、きっと、まだしんちゃんの中で色々整理がついてないからだと思うな。
お兄ちゃんだからしっかりしなきゃいけない。お兄ちゃんだからひまわりちゃんを支えないといけない。たしかに、それは立派なことだと思うし、ひまわりちゃんも救われてると思う。
……だけど、しんちゃん自身はどうなのかな」

「オラ……自身……」

「しんちゃんだって、本当は辛かったでしょ?
お父さんたちのことがあって、ひまわりちゃんのことがあって、風間くんのことがあって……それでも、お兄ちゃんとして何とかしなきゃいけない。
それって、時に自分を追い込む結果にもなると思う」

「………」

「お兄ちゃんでもない。風間くんの友達でもない。しんちゃんが、しんちゃんとしてどうしたいのか……それを、一度振り返ってもいいんじゃないかな?」

「オラが、オラとして……」

するとななこさんは、少し困ったように笑みを浮かべた。

「ごめんねしんちゃん。私に出来るのは、こんなことを言うくらいしかないんだ。これについては、しんちゃん達が、自分達で解決するべきことだと思うんだ。
誰かに答えをもらうんじゃない。誰かに助けてもらうんじゃない。
しんちゃん達が、本当の意味で向き合って答えを見つけることなんだと思う」

「……」

「……あんまり力になれなくてごめんね」

「……そんなこと、ありません」

そしてオラは、立ち上がった。

「ありがとう、ななこさん。オラ、もう一度ひまわり達と話してみるよ。それで、もう一度考えてみる」

「……うん!頑張って!しんちゃん!」

ななこさんは、とても暖かい笑顔を向けていた。
その笑顔が、オラの背中を押してくれた気がした。優しく、そっと。

それから、オラは家に帰った。

「……ただいま」

「……あ、お帰り……」

ひまわりはオラに気付くと、力なく声をかけた。
申し訳ないような、気まずいような……ひまわりは、顔を伏せていた。

これは、オラのせいなんだろうな。
オラが妙な意地を張ったせいで、ひまわりにこんな顔をさせたのかもしれない。

「……ひまわり」

「……うん?」

「今度……出かけようか……」

「……え?」

ひまわりは、驚いたように顔をオラに向けた。

「街にでも行って、買い物でもしようか」

「う、うん……それはいいけど……」

「よし。決まりだな。――それはそうと、オラ、お腹空いちゃったよ。ご飯、食べようか」

「……うん」

ひまわりは、不思議そうに首をかしげていた。
でもオラは、見極めるつもりだった。
本当に、ひまわりにとってどうするのが一番いいのか。オラが、どうしたいのか。そして……

次の休み、オラとひまわりは街に来ていた。
車椅子を押しながら、建ち並ぶ店を眺める。
ひまわりもまたキョロキョロと辺りを見ていたが、どこか動きが硬い。
まだ、色々気になっているのかもしれない。

「……ひまわり、今日は色々見て回るからな」

「う、うん……」

……どうやら、ひまわりは動揺しているようだ。
オラが急に出かけるって言ったからだろう。

「……あ、そうだ。ちょっと寄り道していいか?」

「え?別にいいけど……」

ひまわりの許可をもらい、オラはとある場所に向かう。

そこは、街の駅前だった。
その場所に来たひまわりは、さらに首を傾げていた。

「……駅?隣町にでも行くの?」

「いや、行かないよ。ちょっと、ここで―――」

「――しんのすけ!」

後ろから、名前を呼ばれた。
振り返ると、ここに来た目的である、その人物が立っていた。

「……風間くん、待たせて悪かったね」

「え!?風間さん!?」

ひまわりは、驚いたように後ろを振り返った。そして彼女を見た風間くんも、彼女を見たまま固まる。

「……ひま……ちゃん?」

そんな二人を他所に、オラはひまわりを押して歩き始めた。

「ほら、行くよ二人とも。今日は、三人でお出かけだ」

「―――ッ!?」

「―――ッ!!」

二人は、更に表情を固めていた。

それからオラ達は、3人で街を周っていた。
最初風間くんとひまわりは、オラに気を使いながら歩いていた。
それもそうだろう。先日あんなことがあったばかりだし。

……でも、オラはあえて普段と変わらず二人と接した。
本音を言えば、オラも気まずいことこの上なかった。でも、オラまで気を使ってしまったら、今日ここに二人を並べた意味がない。

オラは、積極的に二人に話しかけた。

「風間くん、この服似合いそうだね」

「あ、ありがと……」

「ひまわり、あっちにアイスがあるから食べようよ」

「う、うん……」

二人は、腑に落ちないような顔をしながら、街を周る。
それでも、時間が経つにつれ、徐々に緊張は途切れていった。

そして最後には、二人は、普段の通りの笑顔を見せながら歩いていた。

頃合いを見計らい、少しだけ二人と距離を置く。

「――風間くん!これ見て!」

「ああ!これ可愛いね!」

「でしょでしょ!?」

「うん!ひまちゃんに似合いそうだ!」

……二人は、とても楽しそうだった。そして、幸せそうだった。
特にひまわりは、普段家では見せないような笑顔を見せる。家族に見せるものとは違う、全く別の笑顔……

この笑顔を作れるのは、きっと風間くんがいるからだろう。
おかげで、ようやく心が晴れた気がした。

「――ひまわり、風間くん、オラちょっと、これから仕事があるんだ」

「え?お兄ちゃん、今日は休みなんじゃ……」

「……さっき電話があったんだよ」

「じゃあ、帰ろうかしんのすけ」

「いやいいよ。オラだけ帰るから、二人で楽しんでよ」

オラは、二人の元から離れはじめた。

「ちょっと!お兄ちゃん!」

ひまわりの言葉に手だけを振って答える。

そして一度振り返り、風間くんの顔を見た。

「……風間くん。ひまわりを、頼んだよ」

「……しんのすけ……」

風間くんは、オラの目を見つめ返していた。その目は、オラに何かを訴えていたように見えた。
そんな彼に微笑みを返した後、オラはそのまま、その場を離れていった。

帰り道に、ふと足を止め空を見上げた。そして二人の姿を想像してみる。

きっと今頃は、二人で街を歩いているだろう。風間くんが車椅子を押して、ひまわりが笑って……
その姿は、オラの心を温かくする。でも少しだけ、寂しさも生まれていた。

「……さて!帰ってご飯の準備でもするかな!」

そんな入り混じる想いを胸に、オラはもう一度歩き出した。
今日は、ひまわりの大好物を作って、帰りを待っていようと思う。

それから、数週間が経過した。
ひまわりと風間くんは、清い交際を続けているようだ。

それは兄としては微笑ましいことではあるが、極度のお母さんっ子である風間くんが、ひまわりとお母さんの板挟みにならないかが少しだけ不安だったりする。

しかしまあ、ひまわりのことだ。持ち前のど根性スキルと負けん気で、難なく色々やってみせるだろう。

今日のごはんはハンバーグにしようと思う。
我が家のハンバーグは、中にチーズを入れる。ハンバーグを開けた時に、トロッと出てくるチーズは、ひまわりが絶叫する程美味なのだ。

「……ん?」

買い物の帰り道、ふと曲がり角にいる不審な人物を発見した。

周りを気にしながら、曲がり角の先をチラチラと覗いているではないか。完璧に、誰が何と言おうと不審者だ。
オラが携帯を手に持ち、ダイヤル110番を押下しようとした直前、その人物に見覚えがあることに気付いた。

(あれは……)

ゆるりと近付き、声をかけてみる。

「――まさおくん?」

「――ィヒイイィイイッ!?」

あれだけ周りを気にしていたのに、背後に近付くオラに全く気付かなかったのだろうか。
付近に響き渡るほど、まさおくんは絶叫した。

振り向いたまさおくんは、オラの顔を見て胸を撫で下ろす。

「……なんだ、しんちゃんか……もう、脅かさないでよ……」

「いやいや、驚いたのはこっちの方だぞ。ていうか、何してるの?」

その問いに、まさおくんは少しだけ躊躇した。そして、曲がり角の先を顎で示す。

「……あれだよ」

「あれ?」

まさおくんに指示されるがまま、オラはその方向を注視した。

「……あれは……ねねちゃん?」

その先にいたのは、ねねちゃんだった。そして彼女の隣には、見覚えのないイケメンが。
二人は、談笑しながら歩いていた。

「……まさおくん。これって……」

「………」

まさおくんの顔は、この世の終わりのように沈んでいた。

オラとまさおくんは、近くの喫茶店に移動していた。
まさおくんは、テーブル上に項垂れていた。

「……まさおくん、大丈夫?」

「うん……なんとか……」

よほどショックだったのだろうか。声に全く生気を感じない。
魂だけ、上空3000mまで旅立ってるようだった。

「……あの人、ねねちゃんの仕事場の保育士さんなんだ……」

「ねねちゃんの職場って……フタバ幼稚園?」

「うん……。前に、見たことがある……」

「保育士さんねぇ……」

突如、まさおくんはテーブルをバンと叩き立ち上がった。

「しんちゃんも見たでしょ!?あんだけイケメンなんだ!絶対に、何か狙いがあるんだよ!
あんなイケメンが、ねねちゃんを相手にするはずなんてないし!!」

まさおくんは、見ていて清々しいほど、はっきりと断言したっ!!

(………おい)

「きっと、ねねちゃんの気持ちを弄んでるんだよ!!許せない!!絶対に許せない!!
……僕が、ねねちゃんを助けるんだ!!!」

まさおくんはさっきまでの屍のような雰囲気を一変させていた。
そこにいるのは、まさに愛の戦士だった。背後に燃え盛る炎が見える。

……言ってることは滅茶苦茶だが。

「……ていうかまさおくん。まさおくんって、ねねちゃんが好きなんだね……」

「当たり前だよ!!!」

「ねねちゃんは、ずっと僕と遊んで来たんだ!!それをポッと出の腹黒野郎に、盗られてたまるかってんだ!!!」

(まさおくん、キャラ変わってるよ。あと、言ってることやっぱり無茶苦茶……)

そしてまさおくんは喫茶店を飛び出していった!!

「あ!ちょっと!まさおくん!!」

オラの呼び掛けに一切答えることなく、愛の戦士は出ていった。

「……会計、忘れてるよ……」

……オラに、伝票を突き付けて……

それにしても、もし仮にライバル(?)だとするなら、まさおくんには悪いが、かなり分が悪い気がする。
何せ、相手は超絶イケメンだし。

(………居酒屋、予約しておくかな……)

オラは頭の中で、まさおくんを元気づける会の計画を立て始めていた。

――と、その時。

ドン

曲がり角を曲がったところで、オラは人とぶつかった。

「うわっと……す、すみません。考え事をしていたもので……」

「い、いえ、こちらこそすみません……ん?」

「……ん?」

オラは、その人物を見て驚いた。
そこにいたのは、例のイケメンだった。

しかしながら、向こうも向こうでオラを凝視していた。
何度見てもイケメンだなぁなんて思いながら、とりあえず聞いてみた。

「ええと……何か……?」

するとイケメンは、意外なことを口にした。
「……あの……失礼ですが、もしかして、野原しんのすけくんですか?」

「……へ?」

「……そうだったんですか。ねねちゃんから……」

「しんのすけくん達のことは、桜田先生からよく聞いています」

オラとイケメンは、行く方向が同じだったため、二人ならんで歩いていた。
なんでも、ねねちゃんは、よくオラ達の話をするらしい。
それにしても、よくオラって分かったな……イケメンは、第六感までも凄まじいのかもしれない。初対面でくん呼ばわりするあたり、少し馴れ馴れしいが。

「……そう言えば、保育士さんなんですよね?」

「ええ。一応……」

イケメンは、照れながら頭をかいていた。どうでもいいが、いちいちイケメンで困る。

「いやいや、幼稚園ではさぞや人気があるでしょう」

「そうでもないですよ。普通くらいです。それに、僕なんかより、桜田先生の方がよっぽど人気がありますよ」

「……マジですか?」

「マジです。……桜田先生は、本当にパワフルですからね。こういう言い方をすれば語弊があるかもしれませんが、子供のような人なんです」

「へえ……というと?」

「子供が笑えば一緒に笑って、子供がケンカすれば一緒になって暴れて、子供が泣けば、今にも泣き出しそうな顔をしながらあやす……桜田先生は、子供達と同じ目線に立てる人なんですよ。
おまけに、少し変わった親が無理難題な容貌を言ってきても、断固としてそれに応じたりしませんし。あくまでも、子供達を基準に考えているんです。

その姿勢が、保護者、同業者、子供達から、高い評価を得てるんですよ。
……それは、見ていて羨ましいくらいです」

「そうなんですか……」

「ああ、誤解しないでくださいね?僕が羨ましいと言ったのは、僕にはない色々な魅力を、彼女が持っているからなんです。
……彼女はね、僕の憧れなんですよ。僕もああやって、自然体で子供達と向き合いたいんです」

「……あなたなら、きっとできますよ」

「そう言ってくれると嬉しいですね」

イケメンは、嬉しそうにはにかんでいた。

(……まさおくん。どうやらキミは、身も心も完全に負けているようだよ……)

心を色で表現するなら、この人は間違いなく白だ。そしてまさおくんは、どこまでも深い深い黒だろう。

(……明日、店を予約するか……)

その時点で、まさおくんを元気づける会の開催は、決定した。

「――あ、僕はこっちなので……」

三叉路に差し掛かったところで、イケメンはオラとは別の方向を指さした。

「わかりました。お仕事、お疲れ様です」

「いえ、しんのすけくんこそ。また今度、園に遊びに来てくださいね。桜田先生も、きっと喜びますよ」

「そうさせてもらいます。……あ、そう言えば、まだお名前を……」

「……え?」

イケメンは、驚いたように立ち止まった。

「……ええと……」

「……やだなあ、しんのすけくん。僕ですよ……」

「……ぼ、僕?」

「忘れちゃったんですか?――バラ組の、河村やすおです」

「河村やすお?……って、もしかして……チーター!!??」

「あ、そのあだ名、懐かしいですね」

イケメン改め、チーターはクスクスと笑う。だからなぜ一つ一つの動作が、そんなにイケメンなのか……

(チーターって……えええええ!!??別人過ぎるだろ!!!!)

あまりの衝撃にフリーズしていると、チーターは手を振って帰り始めた。

「では、僕はこれで……」

「あ……はあ……」

衝撃から依然として解放されなかったオラは、力なく手を振り返すしかなかった。

……時の流れは、チーターをイケメンにメガ進化させたようだった……

「――しんちゃん聞いてよ!!」

それから数日後の夜、まさおくんは血相変えて家に飛び込んできた。
靴を乱雑に脱ぎ捨てたまさおくんは、そのまま居間にいたオラの元へ駆け寄る。

「あ、あの男のことを調べたんだけど……!!」

調べた結果……そんなもの、分かりきっていた。

「――チーターだったんでしょ?」

「そうそう!あの男、実はチーター……!!……って、何で知ってるの?」

まさおくんは、目を丸くしていた。

「この前、たまたま会ったんだよ。ねねちゃん、オラ達のこと話してたみたいだよ?」

「え!?ねねちゃんが、僕のことを!?」

(オラ達って言ったのに。ずいぶんポジティブなことで)

「で!?どうだった!?」

「どうって……」

「チーターだよ!話したんでしょ!?」

「ああ、そういうこと。少ししか話してないけど、いい奴だよ、彼」

無駄にイケメンだったけど。

「しんちゃん!騙されてるよ!」

まさおくんは激怒した!

「そんなの、ただの見せかけだよ!フェイクだよ!本性はもっと、黒いはずだよ!」

まさおくんは自信満々に言い放つ。……しかしまあ、相変わらず言ってることは無茶苦茶だ。

どうするか悩んだけど、さすがにそろそろ言うことにした。

「……ねえ、まさおくん。オラは、キミの友達だからさ、だからこそ、敢えて言わせてもらうね」

「……え?な、何を……」

「――いい加減にしなよ、まさおくん」

「――ッ!?」

オラの言葉に、まさおくんは言葉を飲み込んだ。

「……しんちゃん……」

「まさおくん、正直に言うけど、今のキミは見てらんないよ。ねねちゃんが好きなのは分かるし、盗られたくない気持ちも分かる」

「……」

「……でもね、今のキミはあんまりだ。話してもいないのに勝手に全部決めつけて……そんな姿を見て、ねねちゃんがキミに好意を持つと思ってるの?」

「……そ、それは……」

「キミにはキミのいいところがあるんだ。だから、もっと素直にねねちゃんと向き合いなよ。
……今度、オラとフタバ幼稚園に行こうよ」

「……うん。ありがとう、しんちゃん……」

まさおくんは、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
正直、こんなことを言うのは忍びないところもある。だけど、まさおくんのことを知るオラだからこそ、言う必要があった。
でも最後は、まさおくんも分かってくれた。
それだけで、言って良かったと思う。

「……しんちゃんと一緒に、敵情視察だ……」

まさおくんは、ぼそりと呟く。

……分かってくれたんだよね?

それから数日後、オラとまさおくんは、フタバ幼稚園に来ていた。

久々に見る幼稚園は、少しだけ古ぼけて見える。あれから20年以上だし、それもしょうがないのかもしれない。
それに、建物も校庭も、外の遊具も、物凄く小さい。
……それでも、独特の匂いと、踏み締める土の感触は、昔のままだった。

あの頃オラ達は、この幼稚園で毎日を過ごしていた。
絵本を読んで、歌を歌って、絵を描いて、走り回って、笑いあって、時々ケンカして……
ここに立つだけで、まるでモノクロの投影機のように、昔の光景が脳裏に甦っていた。

「……懐かしいね、まさおくん……」

そう呟き、まさおくんを見る。
まさおくんは、まるで威嚇するかのように、キョロキョロと見渡していた。

(……おい)

「……おや?キミ達は……」

ふと、オラ達のもとに、白髪のおじいさんが近寄ってきた。

「……あ、勝手に入ってすみません。オラ……僕達は、ここの卒業生なんです。久々に、遊びに来ました」

当たり障りなく、挨拶をする。
すると老人は、朗らかに笑った。

「……もちろん、覚えていますよ。よく来てくれましたね、しんのすけくん、まさおくん――」

……園長先生は、優しく微笑む。その表情もまた、昔のままだった。

「それにしても懐かしいですねぇ。もう、20年以上になるんですよね」

オラとまさおくんは、教員室に案内された。
室内には誰もいない。遠くからピアノの音と、子供たちの元気な合唱が聞こえていたから、おそらく授業中なのだろう。

「はい。顔を出せず、すみませんでした」

「いえいえ。あなた方が元気であれば、それで私は満足なんですよ」

園長先生はニコニコとしていた。
口ではそう言っていても、やはりこうしてオラ達が顔を出したのが嬉しいんだろう。

それにしても、園長先生の雰囲気はすっかり変わっていた。
昔の極道丸出しのような容貌はない。太ったことも原因かもしれない。とにかく、朗らかで、とても優しそうな印象を受ける。
園長先生の性格を考えるなら、今の姿が一番しっくりくる気がする。

「……ところで、突然園を訪れて、何か御用があるんですか?」

「あ、ああ……実は、ここで働いているねねちゃんとチーターが働いてるって聞いたんで、懐かしくなって……」

チーターたちの様子を見に来たってのは、一応黙っておこう。

「あ、なるほど。……それなら、授業風景、見てみますか?」

「――いいんですか!?」

オラより先に、まさおくんが反応を示した。
それまで黙っていたのに……なんとも、現金な奴だ。

園内をオラ達は歩く。
あれだけ広かった建物は、時々屈まないといけないところがあった。こうやって大人になって見てみると、やはりどこか小さい。
それでも、この空気に触れるだけで、どこか心が躍る。

「……ここが、桜田先生のクラスですよ」

「ここが……」

オラとまさおくんは、窓から中を覗きこむ。

「――はーい!じゃあ次は、紙芝居の時間ですよー!」

「ええ!?もっと歌いたい!!」

「私もー!」

「僕もー!」

「ごめんねぇ。今日はもうお歌は終わりなの。また明日ね」

「えええ…」

「ぶーぶー!」

「ゴチャゴチャ言ってないで紙芝居始めますよー」

子供たちの文句を押し切り、ねねちゃんは強引に紙芝居を開始していた。

「……なんか、ねねちゃん、すごくパワフルですね」

「まあ……ね……。口は少々悪いですが、それでも園児からは慕われていますよ」

「……ねねちゃん……カッコいい……」

続いてオラ達が案内されたのは――

「ここが、河村先生の教室です」

「河村……チーターの……」

オラとまさおくんは、教室の中を覗き込んだ。

「河村先生!絵ができたよ!」

「お!すごく上手だね!先生すごく驚いちゃったよ!」
河村先生!手伝って!」

「手伝うのはいいけど、最後は自分でしなきゃだめだよ?」

「河村先生!僕も!」

子供たちは、しきりにチーターを呼んでいた。そこにいるのは、間違いなく、生徒から慕われた優しい先生の姿だった。

「河村先生も、物凄く子供に懐かれていますよ。やさしくて、かっこよくて……人気の的なんです」

園長先生は、満足そうにそう呟く。

その姿で、ひとつ確信したことがあった。
チーターは、心に黒い一面があったり、裏の顔があったりしない。ありのままの姿を見せている。
子供は敏感だ。少しでも隠していることがあったり、得たいの知れない何かを持ってたりするなら、絶対にああして笑顔で近づくことはない。
ありのままの姿を見せているからこそ、子供たちは安心して、彼のもとに集まるんだ。

「……チーターは、いい先生ですね……」

「……ええ。本当に立派になりました。私は、彼の園長であったことを誇りに思います」

俺の言葉に、園長先生は幸せそうに返事を返した。

「……」

……一方まさおくんは、相変わらずこの世の終わりのような顔をしていた。
チーターの、あまりの眩しい笑顔に、圧倒されているように思えた。

(……哀れ、まさおくん、か……)

「――いっくよー!」

チーターは、子供たちに向けてサッカーボールを蹴る。きれいな放物線を描いたボールは、ワンバウンドして子供たちの方向に飛んでいった。
子供たちははしゃぎならボールを追う。実に、微笑ましい光景だった。

授業が終わったあと、幼稚園の校庭で、子供たちは先生たちと遊んでいた。
そしてそこには、普段はいない者の姿も……

「――いっくよー!」

まさおくんは、子供たちに向けてサッカーボールを蹴る。低い弾道のボールは、まったく別のあさっての方向に飛んでいった。

「もう!まさおお兄ちゃん!ちゃんと蹴ってよね!」

「うぅ……ご、ごめん……!」

まさおくんは半泣きになりながら、茂みの中に入り込んだボールを回収していた。

オラとまさおくんもまた、子供たちと遊んでいた。
子供と遊ぶのは、正直にいえば疲れる。彼らは疲れを知らず、全力で向かってきていた。
でも、その屈託のない笑顔と声は、自然と心を和ませる。悪くない。

「まさおくん、ちっとも変わっていないわね」

その光景を見ていたオラに、ねねちゃんは近づき話しかけてきた。

「……うん。そうだね……」

オラも微笑を返し、少しの間、校庭で遊ぶ子供たちと、子供と戯れるチーター、子供に翻弄されるまさおくんを見ていた。

「……なんだか、不思議じゃない?」

子供たちを見ていたねねちゃんは、ふと呟いた。

「不思議?」

「うん。――だって、今から20年くらい前には、あそこを走ってたのは、私たちだったのよ?」

「……ああ、そういうことね。そう考えたら、確かに不思議な感じがする」

「でしょ?……子供のころは、何も考えずにああやって走り回って……世の中なんてほとんど知らないのに、まるで全部分かってたかのようにリアルおままごとなんてして……。
――ほんと、子供だったわ……」

「……ああ、実はね、オラ達、ねねちゃんのリアルおままごとが少し苦手だったんだよ?」

「そうなの?」

「うん。だって、やっていて重かったし、もっと楽しいことをしたかったしね」

「言ってくれればよかったのに……」

「言えるわけないよ。ねねちゃん、怒ってただろうし……」

「……そんなに、私って怖かった?」

「うん。すっごく」

「はっきり言うなぁ……」

ねねちゃんは、ばつが悪そうに苦笑いをした。

「ハハハ…!ごめんごめん。――ただ、オラ達はずっと一緒だったね。リアルおままごとにしても、かすかべ防衛隊にしても……」

「かすかべ防衛隊かぁ……。懐かしいね」

「ケンカもしてたけど、あの毎日があったからこそ、オラ達はこうして今でも繋がってる。それって、すごく幸せなことだって思うんだ。
時間は色んなものを変えてしまう。建物だって古くなるし、オラ達にもそれぞれに立場や環境があって、昔みたいに集まることも難しいし。
――でも、それでも変わらないものもある。それが、今のオラ達なんじゃないかな……」

「……しんちゃん、ホントに変わったね。なんていうか、すごく大人になった感じ。実際大人だけど。
とても、昔お尻を出して走り回ってたようには見えないわね」

ねねちゃんは、少し意地悪そうにオラを見た。

「……ねねちゃん。それは言わないで……」

……ふと、思いついた。
今なら、ねねちゃんに色々聞いても大丈夫だろう。

「……そういえば、ねねちゃん」

「ん?なぁに?」

「ええと……」

なんて聞くか、少し悩んだ。ダイレクトに聞いてもいいが、違ったときに気まずくなりそうだし。
少しだけ自分会議をした結果、遠まわしに聞いてみることにした。

「今さ、誰かと付き合ってるの?」

「……え?」

「いやほら、ねねちゃんさ、ここにいたら出会いとかも多そうだし。もしいるなら、全力で応援したいし」

「……うん……」

ねねちゃんは、少しだけ黙り込んだ。
やはり言いづらいようだ。でも、まさおくんはあんな調子だし、ここはオラが頑張ってやらないと……

少し悩んだねねちゃんは、徐に口を開いた。

「……付き合ってはいないけど、気になってる人はいる……かな?」

そう話す彼女の頬は、桃色に染まっていた。

「へえ……それって、どんな人?」

「ええ?言わなきゃだめ?」

「言ってくれないと、サポートも出来ないって。名前は言いづらいだろうから、どんな人くらいかは言ってほしいな」

「う、うん……」

彼女は頬を染めたまま、少し俯いて話し始めた。

「昔はね、何も思わなかったんだ。でも、大人になって再開して、彼、すごく立派になっててね。私、すごく驚いちゃった。それで、なんとなく、気になったって言うか……」

「……その人って、かっこいい?」

「どうかな。私、そういうの疎いから他の人がなんて言うか分からないけど。私は、かっこいいって思うけど」

「そうなんだ。……想いを伝えたりとかは?」

「む、無理だよぉ……。恥ずかしいし、それに、もしだめだったら立ち直れないし……」

「そっか……」

「うん。そうそう。……それにね、私は、今のままでいいの。今はお互い立場もあるけど、とりとめのない話をして、お互い励ましあって……。
確かに微妙な距離感だけど、彼と繋がってるし。逃げてるように見えるかもしれないけど、今は、これでいいの……」

「……わかった。もしオラに手伝えることがあったら、なんでも言ってよ」

「うん。ありがと」

そういうと、彼女は再び子供たちに視線を送った。
その表情は、とても安らいでいた。話す中で、彼のことを思い出しているのかもしれない。とても、幸せそうだった。

……だが、それは少なくとも、まさおくんじゃない。

名前は聞けなかったけど、それは断言できる。

オラは、子供に追い掛け回されるまさおくんを見て、一人静かに合掌するのだった。

幼稚園が終わった後、オラとまさおくんとねねちゃん、それと、チーターの4人は、一緒に並んで帰っていた。

「……もう、ひどい目に遭ったよ……」

まさおくんは、ぼろぼろに疲れ果てながら、そうぼやく。
まさおくんは、まさに子供たちのおもちゃにされていた。しかしまあ、ポジティブに考えるなら、子供に懐かれたということかもしれない。それはそれで、きっといいことだぞ、まさおくん。

「しんのすけくん、まさおくん。今日は来てくれてありがとう。子供たちも喜んでいたよ」

チーターは笑顔で謝辞を述べる。
キラリと光る白い歯。この男、どこまでもイケメン。

「ほんとほんと。今後も、定期的に来てほしいくらいね」

「勘弁してよ……あ、そろそろ先生のとこに行かなきゃ」

まさおくんは腕時計を見た後、オラ達のもとから走り始めた。

「先生って……アシスタントの仕事?」

「うん!今から最後の作業なんだ!――じゃあね!」

そう言って、まさおくんは駆け出す。
そんな彼に、ねねちゃんは声をかけた。

「まさおくん!がんばってね!それと!漫画家デビュー、出来るといいね!」

ねねちゃんの声援を受けたまさおくんは、足を止め振り返る。そしてキメ顔を見せ、親指を立てた。

「……任せといてよ。ねねちゃんのために……頑張るよ!!」

そして彼は、さっきまでの2倍の速度で、走り去っていった。

……そんな彼の脳裏には、敵情視察などというフレーズは、すっかり抜け落ちているのだろう。
オラの情報収集は、無駄に終わったのかもしれない。別にいいけど。

それから三人で雑談をしながら歩いていると、ふいにチーターが何かを思い出した。

「――あ、そうそう。しんのすけくんに、渡そうと思ってたものがあるんだ……」

「え?オラに?」

「うん。ちょっと待って……」

そう言って、彼は手持ちのバッグをごそごそとあさぐる。そして、一枚の手紙を差し出してきた。

「……はい、これ」

「……これって……」

オラは、思わず立ち止まった。
彼が渡してきたもの。それは……

「……これはまさか……結婚式の招待状!?」

「うん。実はね、僕、今度結婚するんだ」

チーターの口から、衝撃的な発言が飛び出した!!

「け、結婚!?だ、誰と!?」

「大学時代から付き合っていた彼女だよ。しんのすけくんにも、きて欲しいんだ。本当はまさおくんにも渡そうと思ったんだけど……渡す前に帰っちゃったし……」

チーターは困ったように笑みを浮かべた。やはり無駄にイケメン……

(――って、そんなことはどうでもいい!!)

「返事待ってるね。……じゃあ、僕はこっちだから。しんのすけくん、今日は本当にありがとう」

そう言い、爽やかな笑顔を見せたチーターは、手を振りながら帰っていった。

「……チーター、結婚するんだ……」

オラはしばらく、体に走った衝撃に身動きが取れなくなっていた。

「河村先生の奥さんってね、すごく美人なんだよ?まさに、お似合いのカップルって感じなの」

ねねちゃんは、笑顔でそう話す。

(まあ、あれだけイケメンなら、そうだろうけど……って、今はそうじゃない!!)

チーターは結婚する。それをねねちゃんは知っているようだ。
そして彼女は、むしろ祝福しているように見える。

……まさかねねちゃん、今の関係を崩したくないってのは、こういう事情があったからなのか?
だとするなら、彼女はどれだけ茨の道を進むのだろうか……

感傷に耽っていると、ふと、後ろから声がかかった。

「――しんちゃん。ねねちゃん」

どこかで聞いたことのある、緩い声。その声の主は……
後ろを振り返ると、そこにはぼーちゃんがいた。

「あれ?ぼーちゃん、今帰り?」

「うん。二人は、何してるの?」

「しんちゃん、今日、フタバ幼稚園に遊びに来てたのよ。……ねえぼーちゃん、せっかくだし、三人で帰りましょう」

「うん。帰ろう」

ぼーちゃんは、笑顔で返事を返す。

そしてぼーちゃんとねねちゃんは、オラの前を歩き始めた。
楽しそうに会話をする二人。
ぼーちゃんはさることながら、ねねちゃんの笑顔には、どこか見覚えがあった。

――幸せそうに、朗らかに笑うその笑顔……それは、確かさっき幼稚園で見た……

(………………まさか……)

……オラは、思い込んでいたみたいだ。

ねねちゃんが気になっているのが、まさおくんかチーターである、と……

(………まさか……ねねちゃんが言ってた、“気になる人”って………)

オラの中で、バラバラのパズルのピースが、一つになった。
そんなオラの前を、ねねちゃんとぼーちゃんは並んで歩く。とても、幸せそうに……

……さすがのオラも、まさおくんに同情するしかなかった。

確実に彼は今、かすかべ一の、不幸な青年であるのだから……

オラ的まさおくんの悲劇から、1ヶ月ほどが経過した。

まさおくんは、いまだにねねちゃんの本当の気持ちに気づいていないようだ。
そういう言い方だと、実はねねちゃんがまさおくんを好きなように聞こえるが、そういうわけではない。
日本語とは、同じ言い方でも様々な意味合いを持つものだと、一言添えておくことにする。

さて、オラはというと、会社であいちゃんが重役会議に出席している間に、あいちゃんの仕事部屋の掃除をしていた。
もっとも、もともと綺麗な部屋なわけで、掃除といっても、ビッカビカの机をさらに磨き上げるように拭くしかないのだが……

それはそうと、最近あいちゃんの機嫌が悪いことが多々ある。
黒磯さんに強く当たるし、たまにオラにも飛び火している。いったいぜんたい何事だろうか。
会社の経営は順調そのもの。あいちゃんの企画した事業も大当たり連発。
その見事な手腕を発揮させ続ける彼女は、成功とは裏腹に、時折思いつめたような表情をしている。
ボディーガード(ほぼ執事)としては、少しばかり心配なのは、言うまでもないだろう。

オラがコーヒーを作っていると、重苦しい音を上げてドアは開かれ、あいちゃんは帰ってきた。

「………」

あいちゃんは、やはり不機嫌な様子だ。

一直線に椅子に向かい、どかりと重い音を鳴らしながら座り込む。

「……はあ」

そして、やはりここでため息を一つ。
このコンボは、最近のあいちゃんの鉄板なのだ。

「……お疲れ様」

そんなあいちゃんに、オラは笑顔でコーヒーを差し出す。

「あ……ありがとうございます。しんのすけさん」
あいちゃんも笑顔でコーヒーを受け取るが、その笑顔は、どこか無理やり作っているようにも見えた。
それを証明するかのように、オラから視線を外すやいなや、あいちゃんは再び、重い表情に戻していた。

どうするか迷ったが、オラは直接聞いてみることにした。

「……あいちゃん、最近疲れてるね……。何かあったの?」

「……少し、思うことがありまして……。いつも気を使わせてしまって、申し訳ありません……」

「いや、それはいいんだけど……何か悩んでいるなら、オラにでも相談してよ。出来る限り力になりたいし」

(本当に力になれるかはなんとも言えないけど……)

「……ありがとうございます、しんのすけさん」

あいちゃんは、再び力ない笑顔をオラに向けた。

何に悩んでいるかは分からない。だけど、オラは彼女のボディーガードであり、友達でもある。
相談してくれるかは分からないけど、もし言ってきた場合は、出来る限り力になろうと決意する。

……そう思った、わずか数日後のことだった……

「――え!?あいちゃんが行方不明!?」

「はい!送迎係の者が、少し目を離した隙にいなくなってしまったようで……」

会社に出勤したオラに、秘書の女性が慌てながら伝えてきた。
あいちゃんが、どこにいるか分からないという。

「GPSとかであいちゃんの場所は分からないんですか?」

「それが、あい様はGPS機能つきの携帯電話、バッグ、靴等をすべておいて行ってしまっているようで……」

(靴にまで……さすがはあいちゃん……)

などと感心している場合ではない。
いなくなったのは自宅敷地内から。そして、寸前まで送迎の車に乗車していた。
状況から考えるに、誘拐の線は薄いだろう。あいちゃん自らが、どこかへ行った――そう考えるのが、妥当だと思う。

ではいったい、彼女はどこに行ってしまったのか……
手がかりは、今のところない。
酢乙女家の監視体制を熟知している彼女にとって、その目を逃れるのは容易いのかもしれない。

「……とにかく、オラも探してみます」

「は、はい!よろしくお願いします!」

オラは急いで会社を飛び出した。
今のところは誘拐ではない。……だが、超大企業のご令嬢がうろつき回っていては、そういう“目”に変わる可能性だって十分考えられる。

(あいちゃん……どこ行ったんだよ……!)

不安な気持ちを抱えたまま、オラは高層ビルが立ち並ぶ街を走り回った。

「はあ……はあ……」

しばらく走り回ったオラの息は、すっかり上がってしまっていた。
行きそうなところを手当たり次第走りまわったが、結局あいちゃんの行方は掴めないままだった。

(もう少し、探す範囲を広げてみるか……)

オラは汗だくのスーツを着替えるべく、いったん家に向かった。

あいちゃんは、いったいどこに行ってしまったのか。そして、どうしていなくなってしまったのだろうか。
最近のあいちゃんの様子は、明らかにおかしかった。
オラに、もっと何か出来ることがあったのではないだろうか……

そんなことを考えながら自宅に戻ったオラは、ネクタイを緩めながら玄関を開ける。
今日は、ひまわりは風間くんと遊びに行っていて、誰もいなかった。

誰もいない家に、オラは一人帰りを伝える。

「……ただいま」

「おかえりなさい。しんのすけさん」

「ああ、ただいま、あいちゃん……」

オラは笑顔を見せる彼女に同じく笑顔を返して、家の奥に向かい…………

………………って

「えええええええええええええ!!??あいちゃん!!??」

誰もいないはずのオラの家には、いるはずのない、あいちゃんの姿があった。

オラは慌てて、あいちゃんに詰め寄った。

「まあしんのすけさん、すごい汗……」

「え!?あ、ああ、ちょっと街中を走り回って……って、そうじゃなくてっ!!!
あいちゃん!!こんなとこで何してるの!!??」

「何をしているのか、と言われましても……。あ、そういえば、自宅の鍵を玄関のポストに入れておくのは、少しばかり無用心ですよ?」

「あ、ああ、ごめん………ってそうじゃなくてっ!!!
会社はたいへんなことになってるよ!!??ほら!すぐに一緒に会社に―――!!」

「――しんのすけさん」

「―――ッ!?」

突然、あいちゃんはオラの言葉を遮った。その言葉には、どこか迫力があった。オラは思わず、続きの言葉を飲み込んでしまった。

「……しんのすけさん、確かおっしゃってましたよね?出来るだけ、力になると……」

「……あ、ああ。言ったのは言ったけど……」

するとあいちゃんは、再びオラに笑顔を向けた。

「――でしたら、私と一緒に、駆け落ちをしてくださいませんか?」

「…………へ?」

……あいちゃん、今何か、口走ったような……

確か……駆け落ち、とか……

「……って、えええええええええええええええええ!!!???」

彼女の言葉を理解した後、本日二度目となるオラの叫びは、家中に響き渡るのだった。

「――私、こうして普通の電車に乗るの、初めてです!」

「へ、へえ……」

「少し遅くて揺れてますけど、こうしてゆっくり旅が出来るのも悪くはありませんね!」

「そ、そうだね……」

あいちゃんは、少し興奮気味だった。
オラ達が乗るのは、地方のローカル線……平日だったこともあり、乗客はまばらだ。
ぼやぁっと窓の景色を見ていたが、最初都会だった景色も徐々に建物の数が減っていき、今では長閑な景色が広がっている。
こうして景色が移り変わる様は、もしかしたら人生に通じるものがあるのかもしれない。
そんな柄にもないことを、頭の中に思い浮かべていた。

そんなオラとは違い、あいちゃんはどうやらこのローカル線というものが、よほど新鮮だったようだ。
椅子に座りながらも、必死に首を伸ばして、窓の外を眺めていた。

……なぜオラ達が、こうして電車に揺られているかというと、あいちゃんの頼みだったからだ。

~数時間前~

「――駆け落ち!?ど、どういうこと!?」

オラの家において、あいちゃんに問い詰めた。
しかしあいちゃんは、あくまでも淡々と答える。

「その通りの意味です。私と、どこかへ旅に出ましょう」

「旅って……」

するとあいちゃんは、表情に影を落とした。

「……お願いします、しんのすけさん」

そしてそのまま、深々と頭を下げた。

そう思い立った理由は言わなかった。聞けば答えてくれたかもしれないけど、どうしてだか、聞こうとは思わなかった。
それは、きっと彼女の口から、誰にも促されることなく聞きたかったのかもしれない。
彼女が何を思い、何を感じたのか……それは、オラが容易く聞けることではないのかもしれない。
そう、思った。

だからオラは、あいちゃんを連れて電車に乗った。
……実のところ、黒磯さんには密かに連絡を入れている。警察に届けられたら色々と面倒だろうし。
黒磯さんはすぐにでも迎えに行くと言ったが、オラが断った。
それがあいちゃんの意志であることを告げたら、黒磯さんはそれ以上止めなかった。

そしてただ一言、オラにこう言った。

「――お嬢様を、よろしくお願いします……」

「――うわあ!しんのすけさん、見てください!海がとっても綺麗です!!」

電車を降りると、目の前には一面の海が広がっていた。
その駅は、海岸沿いにある小さな駅。駅員はいないようで、いわゆる無人駅のようだ。
降りたのはオラ達だけ。……というより、ここまで来ると、電車に乗っているのはオラ達だけだった。
ボロボロのホームにも、オラ達しかいない。
高台にあることから、裾には景色が広がっているが、遠巻きに見ても誰もいない。

……それにしても、駅からの光景は、オラですらも声を漏らしてしまうものだった。
見事に晴れた空と、空の色を写した海は、遠くに見える水平線で交わる。
空気には潮の香りが漂い、遠くから波の音が微かに聞こえていた。

まさに、この絶景を独り占め……もとい、二人占めしている気分だった。

「しんのすけさん!早く早く!」

あいちゃんは、オラを駅の出口へ引っ張っていく。

彼女は、白いワンピースを着ていた。ひまわりの服だ。
もともと肌の白い彼女は、その服がよく似合う。少し大き目の帽子を被っていて、まるで避暑地に来たお嬢様のようだ。実際にお嬢様だけど。

それにしても、こうやって間近で見ると、やはりあいちゃんはかなりの美人だと分かる。
電車に乗っていた時も、彼女はジロジロと見られていた。
電車の中で不釣り合いなほど、彼女だけ別の世界の人間のように思えた。

そんな彼女と二人っきりでいることに、少しだけ違和感を覚える。
それほどまでに、彼女はまるで絵本の中から跳び出して来たかのように、純然とオラの前にいる。

海岸際に来たオラ達は、砂浜に座って海を眺めていた。
波の音以外は聞こえない。

波音の演奏会をしばらく楽しんだ後、あいちゃんは静かに話し始めた。

「……しんのすけさん、私は、最近自分が分からなくなっているんです」

「……分からない?」

「私は、これまで両親の言う通りの人生を歩んできました。両親の期待に応えるために、必死に頑張って来ました。
……ですが、ふと最近思うんです。しんのすけさん、あなたを見ていると……」

「オラを?」

「はい。あなたは、いつも自然体でいます。それが、とても羨ましく思えてました。飾らない自分のまま、人生を歩くあなたの姿に憧れながらも、私は、嫉妬もしていました。
そう思った時、ふと、思ったんです。私は、このままでいいのだろうかって……」

「………」

「……そして先日、それを両親に打ち明けました。そしたら、怒られちゃいました。自分たちの言うとおりにすれば幸せになる……そう、父と母から言われました」

(……怒るほどのことか?)

「それを聞いて、私もっと分からなくなって。……私の人生は、いったい誰のものだろう。両親にとって、私ってなんだろう。
……そんなことを、考えるようになってしまって……」

「……家出を考えた、と……」

あいちゃんは、困ったような笑みを浮かべた。

「家出というわけではないんですけどね。……ただ、一度自分を見つめ直そうって思ったんです」

「………」

彼女は、生まれた時からあらゆるものを与えられてきたのだろう。
お嬢様だし、それも仕方ないのかもしれない。

だけど、今彼女は、そのことで悩んでいる。
今歩く道は、自分で決めたものなのか。ただ両親に促され、流されて生きて来たのではないか……そんな葛藤が、彼女の中にあるんだろう。
それはオラには分からない。彼女にしか、分かりようもない苦悩だと思う。
だけど……

オラは立ち上がり、あいちゃんの手を握った。

「………しんのすけ、さん?」

「あいちゃん、ちょっと来て」

少し強引に、彼女の体を引っ張る。
彼女は、わけのわからないといった表情で、ただオラに手を引かれていた。

「しんのすけさん!いったいどこへ……!!」

「………」

オラはただ、その場所を目指す。

そこはさっき見かけた場所。少しだけ高い岩場。

オラは彼女の手を掴み、岩場を駆けあがる。

「し、しんのすけさん……そっちは、海ですよ?」

「大丈夫。オラも一緒だから」

「で、ですけど……」

そして岩場の頂上に辿り着いたオラは、下を見る。
下は透き通るような海だった。他に岩はなさそうだ。
これなら……

「……しんのすけさん?」

不安そうにオラの顔を窺うあいちゃん。オラは、彼女に微笑みを向けた。

「……飛ぼうか、あいちゃん」

「……え?―――きゃっ!」

オラは彼女の手を引っ張り、海に飛び込んだ。

海面に落ちるなり、辺りには水しぶきが舞う。
塩水が口に広がる。目が少し痛い。

そしてオラとあいちゃんは、海水でずぶ濡れになった。

あいちゃんのブラとパンティーが透ける!

「うぅぅ……ヒドいです、しんのすけさん……」

あいちゃんは服の裾を絞りながら、恨めしそうにオラを見た。

「ごめんごめん。……でも、少しすっきりしたでしょ?」

「……確かに、それどころじゃなくなりましたけど……」

「でしょ?ハハハ!」

「……もう、笑いごとじゃないですよ」

そう言いながらも、あいちゃんは笑っていた。
その笑顔を見たオラは、少しだけ安心した。

「……それで、いいんだよ」

「え?」

「あいちゃんの苦悩とかは、正直オラにはどうすればいいのか分かんないよ。だけど、こうやって嫌なことを忘れて、笑ってもらうことは出来る。
辛い時とか、苦しい時は、そうやって笑うのが一番なんだよ。落ち込んでいるときに色々考えても、結局泥沼にはまっちゃうものだし。
笑って、心をスッキリさせて、そしてもう一度考えるんだ。どうしていくのか……どうしたいのかを。
――そうやって、オラは毎日生きてる」

「………」

「あいちゃん……今日は一日、思いっきり笑おうよ。そしたら、何かが変わるかもしれない」

「……そう、ですね……」

するとあいちゃんは、水にぬれた靴を脱ぎ捨てた。

「……しんのすけさん!もう一度、飛び込んでみたいです!」

「……うん!行こうよ!一緒にさ!」

それからオラとあいちゃんは、海で遊び回った。

彼女にとって、こうやって服のまま海で遊ぶのは、初めてなのかしれない。
彼女は笑っていた。凄く楽しそうに。

遠くの太陽が水平線にそろそろ落ちるかという時間。
オラとあいちゃんは、駅まで歩いていた。もうすぐ、最終電車の時間が迫っていたからだ。
これからどこに行くかは分からない。ただ、こんなところで野宿するわけにもいかない。

二人ならんで、畦道を歩く。
昼間来た時よりも、足元から伸びる影は長い。

「……しんのすけさん、今日はありがとうございました」

あいちゃんは、改めて頭を下げて来た。

「今日は、いいリフレッシュになれました。服が濡れてしまいましたけど、後日弁償を……」

「ああ、それはいいよ。ひまわりにはオラから言っておくから」

(たぶん、激怒されるだろうけど……)

「……そう、ですか。でも、今日という日は、私は忘れません」

「大袈裟だなあ」

「そんなことないです。今日は、本当に充実した日になりましたし。
――ですが、それも終わりのようです」

「……え?」

あいちゃんは、歩く先を見つめていた。その方向には、スーツ姿の男性が3人……

「あれは……」

「………」

男性たちは、何も言わずにオラ達のもとへ歩み寄ってきた。

「……お迎えに参りました、お嬢様……」

男達はあいちゃんに深々と一礼する。

「……お迎えって……」

「……おそらく、父が……」

あいちゃんは、寂しそうに呟いた。

「………」

あいちゃんは、さっきまでの暖かい表情から、とても暗い、沈んだものに変わっていた。

「さあ、お嬢様……いつまでも、お父様方に迷惑をかけてはいけません」

「………ッ」

男の一人が、あいちゃんに手を差し出す。

「……分かりました」

あいちゃんは、男達に向け一歩足を踏み出す―――

「――あいちゃん、待って」

そんな彼女を、オラは手を出して制止した。

「し、しんのすけさん?」

「………」

彼女は驚いたように顔を向け、逆に男達はオラを睨み付けた。

そんな男達に、聞いてみた。

「……あいちゃんの両親は、今何してるんですか?」

男達は、一度顔を見合わせる。そして、一番先頭の男が、口を開いた。

「……会長ご夫婦は、現在重要な会議に出席されています。このようなところに、来れるはずもありません」

「……重要な会議、ね……」

……なんだか、凄く頭に来た。

「……ご両親にお伝えください。――お嬢さんは、オラが責任もって預かる、と……」

「――ッ!?し、しんのすけさん!?」

「……それは、どういう意味でしょうか?」

「その通りの意味ですよ。彼女は、しばらく家には帰しません。どうしてもというなら、自分の足で迎えに来てください……そう、言っておいてください」

「………」

男達の眼光は、更に鋭さを増す。そして、さっきまでとは違う、どこかドスの効いた声を出してきた。

「……あまり、調子に乗らないでもらいたい。会長が、どういう立場の御方か……わかってるのですか?」

「そんなもん知ってるさ。十分すぎる程な」

「それならば、すぐにお嬢様をこちらに……」

「――あいちゃんの父親……それ以外に、何があるんだ?」

「―――ッ」

「オラには、あいちゃんの父ちゃんが何を考えているのかは分からないよ。
……でも、こうしてあいちゃんは悩んでる。苦しんでる」

「……」

「それを、ただ一言、自分たちの言うとおりにしろだので片付けて、挙句迎えにはこんな胡散臭い男達を送って、自分たちは大事な大事な会議と来たもんだ。
……これじゃ、あいちゃんが悩むのも無理ないな」

その言葉に、男は怒りを露わにする。

「……いい加減にしろ。たかだか一介のボディーガードの分際で、会長を侮辱するつもりか?どんな目に遭うのか、分からないのか?」

「……悪いが、今日はあいちゃんのボディーガードじゃないんだよ。今日はな、あいちゃんの友達として、ここにいるんだ」

「……しんのすけさん」

「友達が悩んでいるから、手を差し伸べただけだ。お前のとこの会長殿はどうだ?手を差し伸べたか?あいちゃんをちゃんと見てるのか?
――見てねえだろ!それが家族か!?そんなものが、家族って言えるのか!?」

「……」

「答えろよ!お前は、誰に頼まれてあいちゃんを迎えに来たんだよ!!
酢乙女グループの会長からか!?それとも、あいちゃんの父親からか!?
――答えてみろ!!!」

……辺りは、静まり返った。

すると男の一人に、突然電話がかかってきた。

「……はい。―――ッ!!」

電話に出た瞬間、男の顔色は変わる。

「は、はい――!!……いえ、実は……」

そして男は背を向けて、何かを語り始めた。

「―――え!?で、ですがそれは……!!………はい……はい。分かりました……では……」

電話を終えた男は、他の男達に何かを耳打ちする。
それを聞いた男達は、一様に驚きの表情を浮かべた。

……しかしすぐに、オラ達に背を向けて、離れはじめた。

「……なんだ?」

不思議に思ってると、男の一人が後ろを振り返った。

「……今日のところは、お嬢様をお任せいたします。ですが、何かあった時は……」

「……わかってますって。煮るなり焼くなり、好きにしてください」

オラの言葉を聞いて安心したのか、男はそれ以上何も言わずに、立ち去って行った。

「……いったい、どうしたんでしょうか……」

「……さあね。とにかく、駅に向かおう。電車の時間が、迫ってるし」

腑に落ちないところもあったが、オラ達は、再び駅に向かい始めた。

電車に乗ったオラ達は、線路を走る振動に揺られていた。
窓の外の音は走行音に消されて、単調な音はどこか心地よく感じる。

気が付けば、あいちゃんは眠ってしまっていた。
オラの肩に、頭を預けて。
どうするか考えたけど、起こすのも悪いし、そのまま寝かせることにした。
そんな彼女の髪からは、仄かに海の香りがしていた。

電車は次の駅に止まる。
すると、ホームから、一人の老人が入ってきた。
初老くらいだろうか……しかし身なりは、とてもしっかりしている。スーツを着こなし、白髪の髪を揃えていた。その雰囲気は、威厳に溢れている。
その老人は電車に入るなり、真っ直ぐオラのところへ近付いてきた。
そして、優しく声をかけてきた。

「……隣に座っても、よろしいでしょうか?」

「……え、ええ……どうぞ……」

「ありがとう……」

そして老人は、オラの隣に座る。

電車の中は、オラ達3人しかいない。だから席だってガラガラだった。
それなのに、わざわざオラの隣に座るなんて……でも、その理由は、なんとなく分かっていた。

しばらくの間、オラと老人は、対面の窓の外を眺めていた。
夕陽が窓から射し込み、オラ達の顔をオレンジ色に染めていた。

少し時間が経った頃、老人がふいに話しかけて来た。

「……隣のお嬢さん、よく眠っていますね」

「え?……ああ、はい。海で遊んだので、きっと疲れたんでしょう」

「そうなんですか。……なるほど、とても安らかに眠っている。本当に、気持ちよさそうだ……」

老人は、朗らかにあいちゃんを見つめていた。

そして視線を窓に戻し、再び口を開く。

「……実はですね、私にも、娘がいるんです」

「……そうなんですか……」

「はい。大切な一人娘でしてね。私は、その子のために、色々なことをしてきました。色々なものを与えてきました」

「………」

「……ですが、どうやら私は、その子が一番求めている時に、何も与えることが出来なかったようです。
――その子の御友人から、怒られてしまいました……」

「………」

「その友人の方には、心からの謝罪と、心からの感謝をお伝えしたいんです。
娘は、親の私がこう言うのもなんですが、とても優秀です。私達が期待することを、それ以上のことをして応えてくれていました。
――ですが私は、どうやら勘違いをしていたようです。そんな私達の期待を、娘は重く感じていたのかもしれません。
娘もまた、一人の人間……そんな当たり前のことを、私は、忘れていたんです。
忘れて、仕事に追われて、娘の手を、握り返してやれなかった……
それが、とても辛いんです」
老人は、表情を落としながらそう語る。

「……不器用、なんですね」

「……そうですか?」

「はい。あなたは、とても不器用です。……彼女と、一緒ですよ」

オラがあいちゃんに視線を送ると、男性も彼女を覗き込んだ。

「……彼女も、本当は両親に甘えたいんですよ。ですが、そのやり方が、よく分からなかったようです。
わからないから、家出まがいのことまでしちゃってるんです」

「ほほう……家出、ですか……」

「はい。……ただ、彼女は、知ってほしいんだと思います。
自分の気持ちを、想いを、葛藤を、苦悩を、聞いてほしいんだと思います。
ですが、忙しい両親に気を使うあまり、それが上手く伝えることが出来てないんです。
……ほら、あなたに似てるでしょ?あなたもきっと、そうなんじゃないんですか?」

「……さあ、私には分かりません……」

「分からないなら、一度娘さんと話してみてください。夕ご飯でも食べながら。
オラも、妹と一緒にご飯を食べるんです。そして、色んな事を話すんです。
買い物での出来事、仕事での出来事、テレビの内容……くだらないことも多いですが、そうやって話しながらご飯を食べるの、けっこう、いいもんですよ」

「……」

「……あなたなら、きっと娘さんと上手くやれますよ。だってあなたからは、娘さんへの愛が、しっかりと見えてますから。
必要なのは、ほんのちょっとしたきっかけなんです。ただ、それだけなんです」

「……そのきっかけが、よく分からないんですけどね……」

「そんなの簡単ですよ。
――ただその人の帰りを待ってればいいんです。そして、帰ってきたらこう言うんです。
『おかえりなさい』、と……」

「………」

「あなたの娘さんは、もうすぐ家に帰ります。
――帰りを、待っていてあげてください」

「……そうですね。そうします」

そして老人は、徐に席を立った。

老人は、そのままドアの方に歩く。そしてオラに背を向けたまま、再び話しかけて来た。

「……もし娘が、あなたのような人と巡り合っているとするなら、それはきっと、娘にとって最も幸運なことかもしれませんね」

「……違いますよ。最も幸運なのは、あなたのような、娘さんを心から想っている親の元に生まれたこと、ですよ……」

「ハハハ……恐縮です……」

そして電車は、次の駅に止まる。

ドアが開くと同時に、老人は電車を降りる。そしてホームから、最後に声をかけてきた。

「……その女性を、頼みましたよ」

「……はい。ちゃんと、家に送り届けます」

最後に老人が一礼すると、ドアは閉まり、電車は駅を離れはじめた。

しばらく走ったところで、オラはあいちゃんを見る。
彼女は、依然としてオラの肩に顔を埋めたまま、動かなかった。

そんな彼女に、囁きかけるように、声をかけた。

「……あいちゃん、キミは、ちゃんと愛されているよ。そしてその人は、キミを待ってくれているよ」

「………」

「……だから、家に帰ろう。キミを待つ人のところへ。キミがいるべき場所へ。
オラも、一緒に行くからさ」

「……はい……はい……」

あいちゃんの口から、微かに声が漏れる。
電車の音に掻き消されて、よく聞こえない。……ただ、その声は、僅かに震えていた。

そして隠すかのように俯いた彼女の顔からは、雫が垂れ落ちる。
ポタリ……ポタリ……と、降り積もった雪が春の訪れと共に溶け出すように、零れていた。

それは、きっと暖かいものだ。そしてきっと、彼女の心から溢れ出たものだろう。

そんなオラ達を乗せた電車は、一定の速度で走り続ける。
……まもなく電車は、春日部に到着する頃だ。

その後あいちゃんは家に帰って行った。
入り口の立派過ぎる門のところには、大量のメイドさんと、優しそうな笑みを浮かべる女性、それと、初老の男性……
二人の姿を見た瞬間、あいちゃんは駆け寄り、男性の胸に飛び込んで泣いていた。
そんな彼女を、両親は優しく抱擁する。

……その姿を見て、少しだけ羨ましかった。それでも、オラの心は温かくなっていた。

家族のひと時に、部外者のオラがいつまでもいるのは無粋。
オラは静かに、一人家に帰った。

そして次の仕事の日……事件は、起こった。

「――おはようございます……」

仕事場に出勤したオラだったが、さすがに前日海で遊びまくったせいか、体中が痛い。
オラももう歳なのかもしれない。少しは体を労わるようにしなければ。

それはそうと、さっきから人に見られまくっている。
エントランスホールにいる従業員は、皆がオラを見るなり隣に立つ人とひそひそ話を始める。
その光景は、正直いいものではない。
何か顔にでもついているのだろうか……はたまた、間違えて寝間着でも着て来たのだろうか……

少しだけ背中を丸めたオラは、足早にあいちゃんの事務室に向かった。
途中通る廊下の掲示板には、至る所で人だかりが出来ていた。何があったのかは気になったが、とにかく人が来ないあの部屋を目指した。

「――おはよう、あいちゃん」

入り口を開けて、あいちゃんに挨拶をする。

オラに気付いたあいちゃんは、座っていた席から立ち上がり、オラの元へ駆け寄って来た。

「――おはようございます、“あなた”」

「うん、おはよう……って、あなた?」

「はい。あなた、です」

ニッコリと微笑みを向けるあいちゃん。しかして、なぜ急にあなたと……

「はい。……これです」

「これ?」

あいちゃんは、一枚の紙を手渡してきた。

「……………あいちゃん、これって……」

そこに書いてある文字を、オラは4度見ほどしてみた。しかし、何度見ても同じことが書いてあった。

『祝!酢乙女あい、婚約!』

「……あいちゃん、結婚するんだ……」

「はい」

「へえ~。……誰と?」

「それはもちろん、しんのすけさんとです」

「……ああ、なるほど。やっぱりそうか……」

それは予想していた通りの返答であった。何しろ、しっかりと書いてある。

――『お相手は、酢乙女グループ特別顧問、野原しんのすけ』と……

「ああ、なるほど。オラがあいちゃんと婚約ね。
オラが…あいちゃんと…………って、ええええええええええええええええええ!!??」

朝一の事務室では、オラの叫び声が響いていた。

「ちょっとあいちゃん!これ、どういうこと!?」

オラはあいちゃんに詰め寄る。

「どうもこうも、そういうことです」

あいちゃんは、相変わらずにっこりと笑っていた。

「いやいや…いやいやいやいや!なんで急にこんなことになってるの!?」

「……実はですね、私の父が、しんのすけさんのことを大変気に入っていまして……」

「……それで?」

「好きかと聞かれて、大好きですと答えまして……」

「……それで?」

「結婚することになりました」

「いやおかしいから!!色々飛び過ぎだって!!」

「あら。ちゃんとご家族にも確認を取りましたよ?」

「か、確認?」

「はい。ひまわりさんに。しんのすけさんと結婚したいと言ったところ、『あんな兄で良ければ、じゃんじゃん結婚してやってください』って言われましたし」
「それ、家族だけど、オラへの確認は!?」

「そんなもの必要ありません。私としんのすけさんが結婚することは、すでに決定事項ですし」

「えええ……」

「……あら、もうこんな時間。すみませんが、会議に出席してきます」

あいちゃんは、愕然とするオラを置いて、部屋の出入り口に向かって行った。

「ちょ、ちょっとあいちゃん!まだ話は―――」

「――しんのすけさん。一つ、言っておきますね」

部屋の入り口を開けたところで、オラの方を振り返る。
そして、不敵な笑みを浮かべた。

「――私も父も、かなり“しつこい”ですから。あしからず……」

そう言い残したあいちゃんは、部屋を出ていった。

残されたオラは、ただ愕然とするしかなかった。

それからのあいちゃんの押しは凄まじかった。
一つ、開き直ったのかもしれない。
弁当作りに出張という名のドライブ……一切引くことのないその様は、さしずめ防御を捨てた突撃兵といったところか。
家に帰れば、ひまわりからは結婚を勧められる毎日。

「はぁ……」

思わず、ため息が出てしまった。

「……どうしたんですか、しんのすけくん。ため息なんて吐いて……」

車を運転する黒磯さんは、視線を前に向けたまま聞いてきた。

「い、いえ。ちょっと最近、疲れてまして……」

「……お嬢様、ですか?」

「ハハハ……」

“はいそうです。”……などと返すわけにもいかず、とりあえず失笑で茶を濁す。
すると黒磯さんは、ふっと笑みを浮かべた。

「……少しばかり、大目に見てあげてください。お嬢様は、ご自身でも接し方があまり分からないのです」

「……小さい時には、ここまでなかったんですよ。ちょっと、びっくりしちゃいまして……」

「確かにお嬢様は、幼少時からしんのすけくんお慕いしておられました。
……ですが、やはり幼児期と今では、想いの位置が違うものです」

「想いの、位置……」

「はい。幼児期には、憧れが大きなシェアを占めるものです。しかし今は、それとは別の何かに惹かれています。
小さな頃から変わらない想い……しかし、実際の心境は、あの頃とどこか違うと違和感を覚えているはずです。
――故に、お嬢様自身、戸惑っているところもあるのです」

「……」

「ですから、今は暖かく見守ってあげてください。
これはボディーガードとしてではなく、私自身からの願いですよ」

「……黒磯さんは、大人ですね。凄くダンディーだと思います」

「ハハハ……私は、ダンディーなどではありませんよ。
――私はただの、黒磯です」

(……ダ、ダンディーぃ……)

黒磯さんからそうは言われても、やはりあいちゃんからの圧は相当なものだった。

ようやく仕事が終わり、ヘロヘロになって帰宅する。
しかしまあ幾分か慣れたところはあった。
それが救いかもしれない。

「お兄ちゃんさ、なんではあいちゃんと結婚しないの?」

ひまわりは、実に不思議そうに聞いてくる。

「あいちゃん、綺麗だし、優しいし、仕事もバリバリだし、尽くしてるし……お兄ちゃんにはもったいないくらいなんだけどなぁ……」

妹よ。何気に失礼だぞ。

「……それはわかるんだけどな。ただ、結婚となると話は違うんだよ。
夫婦になれば、付き合っているときとは違う、制約みたいなやつが出るんだ。
好きだから結婚する……確かに、その要素は大きいけど、それだけじゃうまくいかなくなることもあるんだ。
――そんなに簡単なものじゃないんだよ。結婚は」

「……そんなもんかなぁ」

「そうそう。だからお前も、よく考えろよ?」

「……うん」

……その時、突然家のチャイムが鳴り響いた。

「……と、こんな時間に……」

誰だろうか気になりながら、オラは玄関に向かう。
そして鍵を開け、ドアを開いた。

「――はい。どちら様で……」

「……や、やあ……」

玄関先に立つ人物は、少し不器用な笑顔を見せ、片手を上げて挨拶をする。
その人は、オラがよく知る人だった……

「……よ、四郎さん?」

「……」

――四郎さんは、困ったような笑みを浮かべたまま、そこに立っていた。

「――本当にお久しぶりですね、四郎さん」

「あ、ああ……」

四郎さんを家に招き、テーブルを囲む。
四郎さんは、どこか落ち着かない様子だった。
それに、その身なり……着ている服はぼろぼろ。白髪混じりの髪もボサボサ。顔も煤汚れている。

「はい四郎さん。お茶です」

ひまわりは車椅子のまま、四郎さんに湯飲みを渡す。

「あ、ありがと……」

「四郎さんのことは、お父さん達から聞いてましたよ。ゆっくりしてくださいね」

笑顔を見せたひまわりは、奥へと戻っていった。
そんな彼女の背中を見ながら、四郎さんは呟く。

「……そうか……。確か、ひまわりちゃんは……」

「……ええ。事故で……」

「……それは、大変だったね」

「いいえ。ひまわりも悲観してるわけじゃありませんので、あいつはあいつなりに、きっと力強く生きていきますよ」

「……ひまわりちゃんは、強いんだね。それに比べて、僕は……」

言葉を最後まで口にしないまま、四郎さんは俯き目を伏せた。

「……四郎さん?」

四郎さんは、やはりどこか様子がおかしい。
何か、追い詰められているようにも見える。

「……あの、四郎さん。それで、今日はどういう用件で……」

「――そ、そうだ!せっかくなんで、僕がご飯作りますよ!」

「え?い、いや……」

「まあまあ!ちょっと台所借りますね!」

「え?あ、ちょっと……!」

まるで逃げように、四郎さんは台所へ向かう。
やはり、何かあるようだ。しかも、オラに言いづらい何かが……
それが何なのかは分からない。分からないけど……

(……とりあえず、様子を見るか)

もしかしたら、お金に困っているのかもしれない。
こう言ってはなんだが、彼の姿を見る限り、普通の暮らしをしているとは考え難い。
それならそうと言ってくれればいいのだが……まあ、そこは本人の口から言うべきことだろう。

オラはとりあえず、テレビでも見て待つことにした。

テレビでは、夜のワイドショーが流れていた。
特に見たい番組もなかったし、ぼーっとしながら眺めていた。

芸能人の噂、スポーツの結果、特集……いつもと変わりないような、極々ありふれた話題が放送されていた。
そして番組は、ニュースに変わる。

『――本日夕方ころ、春日部市○○のコンビニエンスストアに、強盗が入りました』

(家からわりと近いな……物騒だな……)

『犯人は店員を包丁のようなもので切りつけ、金を出せ、と言いました。しかし店員が大声を出すと、男は何も盗らずに逃走しました。
県警は、強盗致傷事件として捜査を開始し、防犯カメラの映像を公開しました。
――こちらが、その映像です』

そしてテレビには、防犯カメラの映像が流れる。

……そしてオラは、そこに映る犯人が、誰かに似ていることに気が付いた。

(……あれ?これって……)

肥満体質、メガネ、ぼろぼろの服、ボサボサの髪……

「――ッ!?う、嘘だろ!?これって……まさか……!!」

「――ニュース、流れちゃったんだね……」

「――ッ!?」

突如、背後から四郎さんの声がかかる。
すぐに後ろを振り返ると、そこには、四郎さんが立っていた。魂の抜けた、脱け殻のような、弱々しい笑みを浮かべながら……
――そしてその手には、包丁が握られていた。

全身の毛が逆立った。心拍数は一気に上昇し、背中に嫌な汗が流れる。

「……よ、四郎さん……」

「……ごめんね……しんちゃん……」

――テレビでは、繰り返し防犯カメラの映像が流れる。

そしてそこに映るのは、四郎さんだった。

「――さて……しんちゃん、出発しようか……」

「……」

オラは、黙って車のエンジンをかけ、発車した。
後部座席には、包丁を持った四郎さん。そしてその隣には……

「……お、お兄ちゃん……」

ひまわりは、顔を真っ青にして震えていた。
そんなひまわりの顔を見ていないのか、四郎さんは、生気のない顔のまま前を見ていた。

……あの後、オラたちの元へひまわりが来た。
そして彼女は車椅子を降ろされ、人質となった。
歩けない彼女がいる状況に、下手に動くわけにはいかなかった。
オラは四郎さんの指示に従い、どこへ向かうのか分からないまま、車を走らせていた。

「……四郎さん。とにかく、一度落ち着いて……」

「――いいからッ!!……今は、黙って運転しててよ。しんちゃん……」

「……分かりました」

今は、刺激しない方が良さそうだ。
オラはそれ以上のことは言わず、ただ車を走らせる。

……それにしても、四郎さんは、いったいどうしてこんなことを……

最後に会ったのは、オラが小学校に入校したくらいだろうか……
あれから、四郎さんに、何があったのだろう……

様々な疑問が浮かぶ。当然、答えなど分からない。

今はただ、ひまわりの身の安全のために、車を運転するしかなかった。

四郎さんの指示のもと、辿り着いたのは山間にある廃屋だった。
今日は雲が出ているのか、星の灯りはほとんどない。辺りは漆黒の闇に閉ざされ、木々がどれ程あるのかも分からない。今ある光は、四郎さんが持ってきた懐中電灯だけであった。
薄気味悪さもあったが、それ以上にこれからのことが怖かった。

オラとひまわりは、そこにある柱に縛り付けられていた。

「……本当にごめんね、しんちゃん、ひまわりちゃん……」

「……謝るくらいなら、解放してください。そして、一緒に自首しましょう。こんなことをしても、いずれ必ず捕まりますよ」

「……うん、そうかもね……。でも、僕はもう人を刺したんだ。……もう、引き返せないよ……」

「……四郎さん……。ならせめて、ひまわりだけは解放してください」

「お、お兄ちゃん!?」

「ひまわりは見ての通り、歩くことが出来ません。このまま一緒に行動しては、必ず足手まといになりますよ」

「………」

……自分で言った言葉に、胸が痛んだ。

――“歩けないひまわりは、足手まとい”――

本当は、口が裂けてもそんなことは言いたくなかった。
そんなこと思っていない。だけど、彼女が解放されるなら、その可能性に賭けてみた。

……だが四郎さんは、頷くことはなかった。

「……キミ達は、大切な人質だからね。悪いけど、解放はしないよ……」

(……くそ……ダメか……)

とにかく、四郎さんの狙いが分からない。
それを探るべく、オラは再び話しかけた。

「……どうしてオラ達を?」

すると四郎さんは、失笑するかのように、短く笑う。

「……そんなもの、決まってるじゃないか。
――金だよ……」

四郎さんは、ライトの光をオラに当てる。
眩しくて眉をひそめていると、四郎さんの声が響いた。
「噂で聞いたよ。――しんちゃん、キミ、酢乙女グループのご令嬢と婚約したらしいじゃない。
……凄いよね。日本トップレベルの大企業のご令嬢だよ?これから先、遊んで暮らせるだけの金が入るんだ。
……許せないよね。僕はこんなに苦しいのに、キミは想像も出来ないほど、裕福な人生を歩むんだ」

「……」

「……だからさ、その幸せ、少し分けてほしいんだ」

「……あいちゃんに、身代金を要求つもりなんですか?」

「そうだよ。いくらにしようかな……。キミのためなら、いくらでも出しそうだけどね。ヘヘヘ……」

ライトの逆光で、四郎さんの顔どころか、姿すらもは見えない。
まるで闇の底から、声だけが響いているようだった。

彼は今、笑ってるのか……それとも、泣いているのか……

しかし彼の口調には、どこか儚さも感じられる。
“引き返せない”……
彼はそう言った。

四郎さんは、本当は止めてほしいのだろうか。
少なくとも、オラの知る四郎さんは、ケチで気弱でスケベだけど、本当はとても優しい人だった。
絶対に、こんなことをするような人ではなかった。

……それなら、どうして……

「……四郎さん……何があったんですか?何があなたを、こんなことまでさせてるんですか?」

「……」

オラの問いを受け、少し、ライトの光が下がった。そして彼の顔が浮かび上がる。

……彼は、涙を流していた。

「……僕はね、必死に勉強して、大学に入った。大学でも一生懸命単位を取って、卒業も出来たんだよ」

「……」

「……でも、就職先が見つからなくてね。当然だよね。年もそこそこ上で、四流大学出身、何の取り柄もない僕なんて、どの会社も欲しくはないだろうね。
――結局僕は、浪人生活に逆戻りさ。
皮肉だよね。大学浪人を抜け出した先にあったのは、就職浪人なんだよ……」

「……」

確かに、四郎さんが大学を出た頃は、ちょうど就職氷河期と呼ばれていた時代……
就職は、そうとう困難だっただろう。

「……それでも、仕事をしないと生活は出来ない。仕方なく僕は、アルバイトをしたんだ。
……でもそこは、地獄だったよ……」

「地獄……」

「僕ね、色々鈍いんだ。だから、仕事を覚えるのが遅くてね。
年下のバイトの先輩にはバカにされ、罵倒され……客にはクレーム入れられ、店長には怒鳴られ……そしてまた、後ろ指を指されて笑われる毎日だった……」

「……」

「それでも頑張ったんだ。今は耐える時だ。いつか就職出来れば、この生活も終わりだ。
……そう、毎日自分に言い聞かせてたよ。
そしてついに、僕は就職出来たんだ。小さな会社だったけど、それでも、僕は嬉しかった。これで普通の、落ち着いた生活が出来るって思ったんだ。
……でも、現実は違ってた」

「……それじゃ……」

「そうだよ。そこに待っていたものも、結局地獄だったよ。
怒鳴られ、笑われ、蔑まれ……何も変わらない、苦しいだけの生活だったんだ……」

「……四郎さん……」

「しばらく勤めたけど、最後には鬱になってね。
それを上司に言ったら、あっさりとクビを迫られたよ。
……そしてまた、僕は何もない生活さ……」

「それからはアルバイトしても続かず、その日暮らしの生活だったよ」

「……」

「何のために生きているのかも分からない。ただ生きることにしがみつく毎日。
……それってさ、死んでるようなものなんじゃないの?
そう考えたら、どうでも良くなってきてね。最後に大金で豪遊して、つまらない人生に終止符を打つつもりだったんだ……」

「……それが、強盗とオラ達を誘拐した理由なんですか?」

その問いに、四郎さんは静かに頷いた。

四郎さんの話は、とても辛かった。
それでも、彼の経験した辛さは、桁違いのものだっただろう。
社会の厳しさに飲み込まれ、絶望し……今の彼は、生き方を失っているのかもしれない。
もちろんそれは、犯罪を正当化する理由にはなり得ない。
……それでも、同情せざるを得なかった。

……だけど……

「……四郎さん……オラは――」

「――ふざけないで!!」

「――ッ!?」

「――ッ!?」

突然暗闇の中、ひまわりの怒声が響き渡った。

オラと四郎さんは、思わず声を出すのを忘れ、ただ彼女を見つめていた。

ひまわりは、四郎さんを睨み付けていた。
さっきまでの怯えていた彼女とは、まったく違っていた。力強く、鋭い目つきだった。
こんな眼がひまわりに出来たことに、オラは驚いた。

「ひ、ひまわりちゃん……」

四郎さんも、動揺していたようだった。
ひまわりは、なおも四郎さんに叫ぶ。

「どれだけ辛くたって、どれだけ苦しくたって、それがこんなことをする理由になんてなるわけないでしょ!?
あなたは卑怯だよ!!四郎さん!!自分の環境を、全部他人のせいにしてる!!
――そんなの、卑怯だよ!!」

「……う、うるさい!!うるさいうるさい!!
お前に――お前に何が分かる!!僕が味わった苦しみが、お前なんかに分かるもんか!!」

「辛い思いをしたのは、あなただけじゃない!!誰だって、苦しいことがあってる!!
――四郎さんだって同じでしょ!?あなたに……私とお兄ちゃんの、何が分かるの!?」

「―――ッ!」

「………」

「お父さんとお母さんが死んで……私は、一人ぼっちになったと思った!!でも、お兄ちゃんが助けてくれた!!私は一人じゃないって言ってくれた!!
私が落ち込まないように、無理して笑いかけてくれてたよ!?」

いつの間にか、ひまわりの目からは涙が溢れていた。オラと四郎さんは、ただ彼女の言葉を受ける。
彼女の言葉は、オラ達の時を止めていた。

「……私、知ってた……お兄ちゃんが、誰もいないところで泣いていたの……知ってた……!!
本当はお兄ちゃんだって……誰かに助けてほしかったんだよ……。
―――本当は、お兄ちゃんだって辛かったはずなのに……お兄ちゃんは笑ってたよ!?
……本当は……お兄ちゃんだって……!!」

言葉の途中で、ひまわりは声を上げて泣き出した。
漏れる息に言葉は飲み込まれ、彼女はそれ以上、何も言えなくなっていた。

「……ひまわり……」

「……だから、なんだよ……。だから、なんなだよ!!」

ひまわりの姿を見た四郎さんは、何かを振り落すかのように声を荒げた。

「……僕には、そんな立派なお兄ちゃんなんていない!!そんな立派な人間にもなれるわけもない!!
誰もが強くなんてないんだよ!!弱い人間だっているんだよ!!
僕だって頑張ったんだ……必死に、頑張ったんだよ!!だけど、うまくいかないんだよ!!
何をしてもダメ!!どれだけ頑張ってもダメ!!全部全部全部……!!
期待しても、結局はみんなうまくいかない!!ぬか喜びだけさせて、あるのはいつもの毎日だけ!!
――そんな毎日なら……それなら……いっそ……!!」

「――いっそ、全部捨ててしまいたい……ですか?」

「―――ッ」

四郎さんの叫びは、たぶん、心の声だったんだろう。
それを聞いて確信した。

……この人は、誰かに助けてほしかっただけだって。

「……四郎さん、オラもね、強くはないんですよ」

「……しんちゃん……」

「父ちゃんと母ちゃんが死んだとき、オラ、どうすればいいのか分からなかったんですよ。それまで当たり前のようにいた二人がいなくなって……目の前には、泣きじゃくるひまわりしかいなくて……。
……本当はオラだって、ただ泣きたかったんです。でも、ひまわりがいる以上……お兄ちゃんである以上、それは出来ませんでした。
オラまで泣いてしまったら、この子はきっと、オラよりもどうすればいいのか分からなくなる……そう、思ったんです」

「……お兄ちゃん……」

「……正直ね、すごくキツかったんですよ。感情を素直に出すひまわりを見て、何度も羨ましく思ったんです。
どうしてこの子ばかり泣けるんだろう。どうしてオラばっかり強がらなきゃいけないんだろう……そんなことさえ思うこともありました。
――授業参観も、風邪引いた時も、進路指導も、卒業式も、入学式も……オラの隣には、いつも泣き続けるひまわりしかいませんでした」

「………」

ひまわりは、目を伏せた。それを見ると、やはり胸が痛くなる。
この話は、誰にも話したことがなかった。だけど、今話さないといけないと思った。

「……でも、心が潰れようとした時に、ひまわりはいつも笑うんですよ。笑いながら、お兄ちゃんお兄ちゃんって言って来るんですよ。
何だか笑えませんか?本当はキツいオラに、笑いかけてくるんですよ?
……もう、笑うしかないじゃないですか……そんな顔されたら、どれだけ辛くても、笑い返すしかないじゃないですか……。
……でもね、不思議なんですよ。笑ってると、それまで締め付けられていた気持ちが、何だか楽になるんですよ。
――そん時、オラ気付いたんです。
ひまわりを支えようと思っていたけど、支えられていたのは、オラの方だったって」

そしてオラは、四郎さんを見た。彼はただ黙って、オラの話を聞いていた。

「……四郎さん、あなたを支えてくれる人は、どこかに必ずいます。笑顔を向けてくれる人は、必ずいます。
それは両親だとか友人だとか……あなたの身近に、いるはずなんです」

四郎さんは、項垂れた。そして、手で顔を覆いながら声を漏らす。

「……そんなもの、僕にはいないんだよ。両親からは勘当され、友達もみんな離れていった……。そんな僕に、笑顔を向ける人なんて、いないんだよ……」

「――オラがいますよ」

「………!」

「オラは、四郎さんが、本当は優しい人だって、よく分かっています。それに、父ちゃんと母ちゃんなら、きっとあなたに笑顔を向けていたはずです。
一人だなんて言わないでください。もっと、よく見てください。
――オラ達は、友達じゃないですか……」

「……ありがとう……ありがとう、しんちゃん……」

四郎さんは、その場に崩れ落ちた。顔を隠していた手を力なく下げ、涙を流すその顔を、ただオラ達に見せていた。

「……四郎さん。友達として、もう一度お願いします。――もう一度、やり直しましょう。
これから先、きっとあなたなら頑張れるはずです。でももし辛くなったら、いつでもご飯を食べに来てください。
父ちゃんと母ちゃん、オラとひまわり、そしてあなた……5人でテーブルを囲んだあの日のように、また一緒に、ご飯を食べましょう」

「……うん……うん……!」

「……自首、してください。オラも一緒に、付き添いますから……」

「……あああ……うあああああ……!!」

四郎さんは、その場で泣き崩れた。床に額を押し当て、ただただ慟哭を響かせていた。
彼の持ってきてたライトは、気付かない間に電池が切れていたようだ。
それでも、いつの間にか、外からは月の光が差し込む。

そして月光のスポットライトは、床に転がる刃物を照らす。
鈍く仄かに光を反射していたが、それはどこか、寂しい光だった。
その後、四郎さんはオラ達を解放し、地元の警察署へ自首した。
オラも、それに同行した。

受付にことの詳細を説明すると、警察官は驚きながらも四郎さんを連れて行った。

『……しんちゃん、僕、罪を償うよ。そして、もう一度頑張ってみるよ……』

彼は、最後に微笑みながらそう言った。疲れ切っていたが、その顔には、どこか生きる強さを感じた。
彼を見送った後、オラもまた事情を聞かれた。
狭い部屋に案内され、調書を取られる。
調書を取った刑事さんは、オラにこう言ってくれた。

『どんな理由があるにせよ、彼のしたことは簡単に許されることではありません。
……でも、彼は罪を償おうとしている。そこに、大きな意味があります。彼は、きっとやり直せますよ―――』

思わず、頭を下げた。

四郎さんが起こした事件は、こうして幕を閉じる。
しかし、これもまた、今の社会を表すものなのかもしれない。

世の中、うまくいくことなんて少ない。辛い毎日が続いたり、連続で不幸が訪れることなんてしょっちゅうだ。
それに耐え続けるのは、誰であっても顔を伏せてしまうこともあるだろう。時には耐えきらず、どうすればいいのか分からなくなるだろう。

……だからこそ、笑うんだ。不幸なんて吹き飛ばして、笑うんだ。
そうすれば、きっと何かが生まれるはずだから。それを見た人も、きっと幸せになるはずだから。

だからオラは、四郎さんを待とうと思う。そして彼が、全てを償った時、笑顔で出迎える。
それが、オラが四郎さんに出来る、友人として出来る、最善のことだと思うから……

ひまわりは先に家に帰っていた。
一人だと怖いだろうからと、眠るまでは一緒にいた。
やはり相当疲れていたのだろうか、彼女はすぐに寝息を立てていた。

一人、帰り道を歩く。
そして家に辿り着いた時、玄関先にその人がいることに気付いた。

「……やあ」

オラは、少し笑みを浮かべながら声をかける。

「……おかえりなさい、しんのすけさん……」

その人――あいちゃんもまた、オラに返事を返す。

「オラを待ってたの?どうせなら、家で待ってればよかったのに……」

「いいえ。帰りを待つのも、妻としての役目ですので……」

「だから、まだ妻じゃないって。……それより、さっきはありがとう」

一瞬、あいちゃんは面をくらったように驚く。

「さっき、オラ達が捕まってた時、外にいたんでしょ?」

「……いつ、気付かれましたか?」

「別に、気付いてはいないよ。……ただ、あいちゃんのことだ。車椅子に、何か仕込んでたんでしょ?」

「……お察しの通りです。ひまわりちゃんの車椅子には、ひまわりちゃんの心拍数を計測して、もし異常値が出た後に席を離れた時、背に向けて発信機を飛ばす仕組みがありました」

「だろうね。天下の酢乙女グループの最新型だし、そんくらいの凄い機能はあると思ってたよ」

「………」

すると急に、あいちゃんは表情を暗くする。視線を下に向け、口を噛み締めていた。
そしてしばらく沈黙した後、静かに、口を開いた。

「……しんのすけさん、ごめんなさい。今回の件は、私のせいです」

「いや、別にあいちゃんのせいじゃ……」

「いいえ。こうなったのも、私が余計なことを広げたからです。
私自身の警護は、常に万全です。しかし、こんなに早く、しんのすけさん達に危害が及ぶとは……」

あいちゃんの表情は、沈みきっていた。
今彼女は、自分自身を激しく責めているのだろう。

「……あいちゃん、それは違うよ。そもそも、四郎さんは、金目当てにオラ達を連れ出したわけじゃないし」

「……そうなんですか?」

「うん。四郎さんは、ただ、助けてほしかったんだと思う。
今の状態が辛くて苦しくて、どうすればいいのか分からなくて……それでも、毎日を過ごさなきゃいけない。彼は、疲れたんだよ。
だからこそ、オラの家に来たんだと思う。金目的ってのは、たぶん後付だろうね。
きっと、誰かに手を差し出して欲しかったんだと思う。自分の境遇を聞いて欲しかったんだと思う。
……最後に見た四郎さんの顔が、そう言ってた気がしたんだ。
もちろん、それは四郎さん本人じゃないと分からないだろうけど」

「……四郎さんは、しんのすけさんに救われたんですね」

「違うよあいちゃん。オラは、何もしてないんだ。ただ、少しだけ背中を押しただけ。
最後に足を踏み出したのは、四郎さん自身なんだよ」

「……そう、ですね……そういうことにしておきます」

あいちゃんは、ようやく笑みを浮かべた。

最後にあいちゃんは、深々と頭を下げる。

「――とにかく、本当にごめんなさい。これからは、気をつけるようにします」

「だから、それはいいって」

「……でも私、ますます気持ちが強くなりました。やっぱり私は、あなたと共にいようと思います」

「それは……どうなんだろ……」

「フフフ……言ったはずですよ?私、しつこいんです。――では、おやすみなさい……」

そしてあいちゃんは、微笑みを残して帰って行った。
何だかますます明日からの生活が不安になったが、今日は休むことにした。

家に入り、眠るひまわりの部屋を覗く。

「……お兄ちゃん……」

ひまわりは、目を閉じたままオラを呼んでいた。
……どうやら、寝言のようだ。

「……おやすみ、ひまわり……」

起こさないように呟いたオラは、ドアを閉める。
そして自分の寝室に行き、泥のように眠った。

……その日の夢は、久々に父ちゃんと母ちゃんが出て来た。
二人は、オラを見て笑っていた。とても、暖かい笑顔……とても、安らげる笑顔だった。

それから数日後、オラは仕事に翻弄されていた。

「――しんのすけさん!これとこれ!すぐにデータにまとめてください!」

「ふぁぁあいぃ……」

目の前には、次々と分厚い資料が山積みとなっていく。

酢乙女グループでは、新事業を進める。
その指揮を執るのが、あいちゃんとなっていた。

おかげで連日この有様。残業に次ぐ残業の毎日。家にはとりあえず帰って数時間程度寝るだけの毎日だった。
しかし今日が山場であり、明日以降は落ち着くとのこと。

オラは袖を捲り上げ、栄養剤を一気飲みする。
そしてパソコンに正対し、キーボードに覇気を込め―――!!

「しんのすけさん!これも追加!!」

……とにかく、頑張ってみる。
オフィスからは、今日もキーボードの音が鳴り響いていた。

クタクタに疲れ果て、家に帰る。
今日は連日の残業を考慮され、日中に退社させてくれた。

玄関を開けるも、もはや『ただいま』を言う元気すらもない。靴を脱ぐなり、這いつくばるように家の中に入って行った。

「―――そうだね。それは分かってる……」

――ふと、台所から、ひまわりの声が響く。

(ん?)

「……そう……うん……ごめんね……」

どうやら、電話中のようだった。相手はおそらく、風間くんだろう。

盗み聞きをするのもアレだったから、とりあえず二階へと避難することに。

「……でも、やっぱり……そう……ごめんね……」

……何やら、重苦しい口調だった。
なんだろうか。何か、トラブルでもあったのだろうか……。

どうするか悩んだが、あえて声を出してみた。

「……ただいま」

「え――ッ!ご、ごめん!お兄ちゃんが帰ってきた!またあとでね!」

台所の奥から、慌てて電話を切るような会話が聞こえる。
そしてその後、きこきこと音を鳴らしながら、ひまわりは車椅子で出迎えた。

「お、おかえり!今日は早かったね!」

「ああ。ちょっと早く終わってな」

「そうなんだ!ほら、早く着替えてきなよ!」

「……そうするよ」

オラは、家の奥へと向かう。

……やはり、何かあったようだ。
ひまわりの話し方が、無駄に明るい。こういう時は、何かをオラに隠しているパターンだ。
伊達に彼女と長く過ごしているわけではない。彼女の癖など、オラにはお見通しだった。

……問題は、何を隠しているのか、ということ。
話しの感じから、おそらくは風間くんとの何かだろう。

……しかしまあ、男女の仲に親族が首を突っ込むのもアレだったので、オラは気にせず、食事の用意を始めた。
今日のご飯は、焼き魚にしよう。

「――しんのすけさん、昨日はお疲れ様でした」

次の日、出勤するなり、あいちゃんはコーヒーを持って歩み寄ってきた。

「ああ……ありがとう、あいちゃん」

「すみませんでした。本来、あの仕事はしんのすけさんがすべきことではなかったのですが、人手が足りず……」

「いやいや、全然大丈夫だよ。むしろ、久しぶりに思いっきり働いたって感じだったし」

少しオーバーに、手足を伸ばしてみる。
それを見たあいちゃんは、クスクスと笑っていた。

「そう言ってくれると、こちらも気が楽です。……それはそうと……」

ふと、あいちゃんが話題を変えて来た。

「あの、しんのすけさん。……風間さんから、何か話はありませんでしたか?」

「え?風間くんから?……いやぁ、何もないけど……」

「そうですか……。それが先日、噂で聞いたのですが……〇△企業が、海外に新たな支社を作るらしいのですが……」

「〇△企業?風間くんの会社……」

「はい。そしてその支社の経営を、若い者が任されたらしいのです。――その人の名前が……」

「………まさか……」

何か、嫌な予感がした。
オラの顔色が、瞬時に変わったのかもしれない。あいちゃんは、少し躊躇するように、口を開いた。

「……はい。風間……という人らしいのです……」

「………」

……考えるまでもないだろう。それはおそらく、風間くんに違いない。
海外の支社を任される若い社員でその苗字なら、彼しかいないはず。

……でも、もしそれが本当なら……

「………ひまわり……」

思わず、その名前を口にしていた。
あいちゃんは、ただ険しい顔をして、オラを見つめていた。

仕事終わり、家に向かう。
あいちゃんが言っていたことが本当なら、風間くんは海外の支社に向かう。そしてそこに、永住する。
……それなら、ひまわりは……

(……付いて、行くんだろうな……)
そう考えると、心の中に穴が空いた気分になる。
……でも、鳥はいつか巣立ちをして、家族から離れていく。それが、今かもしれない。
それはとても寂しいことだと思う。だけど、それが一番ひまわりが幸せになることだと思う。
それなら、オラは……

「……ただいま」

重い体を引きずるように、家に帰り着いた。

「お帰り!お兄ちゃん!」

ひまわりは、いつもと変わらない笑顔を向けていた。でもこれも、そのうち消えてしまうのかもしれない。
……それに、それは話しにくいことでもあるだろう。オラは、背中を押すことにした。

「……ひまわり」

「うん?どうしたのお兄ちゃん?」

髪を揺らしながら、ひまわりは首を傾げた。

「……風間くんから、何かなかったか?」

「………え?」

ひまわりは、固まった。やはり、話を聞いていたようだ。

「今日さ、聞いたんだよ。風間くんが、海外に行くことを……もちろん、聞いてるんだろ?」

「………」

ひまわりは、表情を落としていた。

それから、オラ達の間に沈黙が流れる。居間の方から、テレビの音が小さく聞こえるだけだった。
玄関に立つオラ。廊下で動かないひまわり。
――とても、長い時間が流れたように感じた。

「……ひまわり……あのさ―――」

「――別れたよ」

ひまわりは、オラの言葉を遮るように、早口でそう言った。

「……え?」

「私達、もう別れたの。言ってなくてごめん」

「い、いや……別れたって……」

「――ほらお兄ちゃん!晩御飯出来てるから、ご飯にしよ!私、お腹空いちゃった!」

そう言うと、ひまわりは再び笑顔をオラに見せ、奥へと向かう。

「お、おい!ひまわり!」

彼女は、オラの呼び掛けには答えなかった。

(……別れた……別れたのか?)

その時、オラの中では二つの想いが入り混じる。
二人が別れたことの動揺。残念さ。……そして、少しの安堵感。

その安堵感を感じたオラは、無性に自分が許せなく思った。
だけど、どうすればいいのかも分からず、唇を噛み締めたまま立ち尽くしていた。

次の日も、また次の日も、ひまわりは変わらない日々を過ごしていた。
あれ以降、その話題に触れることはない。
ひまわりが、一切その話題に触れることはなかった。何も話さず、ただ日常の光景が繰り広げられるだけだった。

……いや、それは卑怯な言い方だろうな。
ひまわりが話さないんじゃない。オラが、聞かないだけだった。
たぶん、心の中では、このまま風間くんと別れて、ひまわりがずっといてくれることを望んでいるのかもしれない。
でも、胸の中にあるモヤモヤは、全く取れない。

行って欲しくないという気持ちと、曇りがかった憂い……その両方がオラの中に混在し、頭の中をグチャグチャにさせる。
……これじゃあ、どっちが保護者なのか分かったもんじゃない。
こんなにオラは、頼りない奴だったのだろうか。何だか自分が自分じゃない気持ちだった。

……そして、オラはまた、実体の掴めない気持ちに揺らされる毎日を過ごしていた。

「――そうですか……ひまわりちゃんが……」

「はい……」

仕事の休憩中、オラは黒磯さんに、自分の胸の内を打ち明けた。
黒磯さんは、嫌な顔一つせず、オラの愚痴のような話に付き合ってくれた。

「……私自身、そういう恋愛沙汰は疎くて……何とも言えないところはありますね。
ただ、それは本当に、ひまわりちゃんが望んだことなのか――それが気になります」

「……どういうことですか?」

「………」

黒磯さんは、何かを考える。目はどこかを向き、まるで言葉を防ぐかのように、手を口に添えていた。

「……それは、今はまだ分かりません。
それよりも、私としては、別のことが気になりますね」

「別のこと?」

「……あなたのことですよ、しんのすけくん」

「お、オラ?」

「……人は、何か複数の選択肢で悩む時、答えは、既に決まってるものなんですよ。悩むのは、その確認作業なんです。
これで本当にいいのか分からない。そうしたいが、それが正しいのか分からない。
だからこそ、人は誰かに救いを求め、教えを乞うのです。そして、自分の判断の正しさを検証するのです」

「………」

「……さて、しんのすけくんは、どちらに決まっているのですか?もちろん、その答えは、しんのすけくんにしか分かりません。
ただ、私の知るあなたなら、きっと後は足を踏み出すだけなんです。何しろあなたは、お嬢様が認めた人物なのですから」

「……黒磯さん……」

話し終えた黒磯さんは、微笑みだけを残して立ち去って行った。
彼の話は、オラの体深くに響いていた。

……本当は決まっているはずの、オラの気持ち……
でも今のオラには、いくら考えても分からなかった。

仕事を終え、帰宅する。
しかし家とは別の方向に歩いていた。このまま素直に家に帰るのは、少し複雑だった。
フラフラと商店街を歩く。
一体どうすればいいのか、改めて自分に聞いてみる。……返事は、出来なかった。

「――しんちゃん」

ふと、後ろから話しかけられた。

「……ん?」

後ろを振り返ると、そこにはぼーちゃんがいた。

「ああ、ぼーちゃんか……仕事帰り?」

「うん。……ねえ、しんちゃん」

「うん?なに?」

「……ちょっと、いい?」

ぼーちゃんは、何かを訴えるかのような目をしながら言ってきた。
何か、話があるのだろうか……

ぼーちゃんに誘われるまま、オラ達は近くのファミレスに移動した。

ファミレスの中は、客が疎らだった。
ぼーちゃんはコーヒーを飲みながら、小難しい顔をしていた。

「それで……ぼーちゃん、話があるんでしょ?」

「……うん」

ぼーちゃんはコーヒーカップを置き、オラを見た。

「……僕、この前、風間くん達を見た」

「……え?」

「公園で、話してた。……ひまわりちゃん、泣いてた」

ぼーちゃんは、沈んだ表情でそう話す。

「……ひまわりが……どんな話かは、聞いたの?」

「詳しくは、聞けなかった。……でも、二人とも、とても悲しそうだった……」

「……そう……」

おそらくは、ひまわりとぼーちゃんが言うことが本当なら、たぶん別れ話をしていたんだろう。
そして、ひまわりは泣いていた―――それが意味することは、おそらく一つしかないだろう。

思案に耽っていたオラに、ぼーちゃんは声をかける。

「……僕、二人のことは、よく分からない。何があったかも、分からない。
でも、二人に、あんな顔、してほしくない。それは、しんちゃんも同じだと思う」

「ぼーちゃん……」

そしてぼーちゃんは、もう一度コーヒーを飲む。

「しんちゃん……キミは、僕の大切な友達。キミのことを、信じてる……」

ぼーちゃんは、それ以上何も言わない。
……いいや、きっとそれだけで十分だと思ってるんだ。オラを、信じてるんだ……。

「……分かったよ、ぼーちゃん。オラ、やってみるよ」

少し大きく、返事を返す。ぼーちゃんは、ニコリと笑っていた。

数日後、オラはとある公園にいた。
空はあいにくの雨。視界に斜線を入れるかのように、雨が降り続いている。
当然、公園に他の人はいない。
掻き消されているのか、降りしきる雨の音以外、何も聞こえなかった。

その中で、傘をさしてベンチに座る。
実のところ、オラは雨の日が嫌いではない。
雨粒を受けた木々、花々は天の恵みを受け生き生きと存在感を示す。濡れたアスファルトからは、普段とは違う、そう、雨の匂いがしていた。
この風景を見ていると、どこか落ち着いて来る。
天の恵み……なるほど、その言葉も納得できる。

「……しんのすけ」

ふと、雨音に紛れるように、オラの名前を呼ぶ声が聞こえた。
その声の主は、誰だか分かっていた。なぜなら、オラが呼んだからだ。

オラはその人物の方を向く。

「……やあ、待ってたよ、風間くん……」

「………」

風間くんは、何も言わずに立っていた。
スーツ姿にビジネスバッグ、黒いコウモリ傘をさしている。
その表情は、薄暗く空のかかる、雨雲のようだった。

「……とにかく、座りなよ」

「……ああ」

ベンチに座るよう促すと、濡れたベンチを気にすることもなく、風間くんは座った。
そしてオラ達は、しばらくの間、会話を忘れて水に潤う情景を眺めていた。

少し時間が経った頃、風間くんの方を見る。
どこか落ち着かない様子で、表情を伏せていた。
……それも、無理もないのかもしれない。

「……いきなり呼び出したりして、ごめん」

「……別にいいよ。それよりしんのすけ。用件、なんだよ」

風間くんは、目の前の景色を見つめたまま、急かすように訊ねる。だがその口調から、おそらくは、用件など分かっているようだった。

「ああ……。風間くん、この公園に、見覚えあるよね?」

「……」

「こんなところに呼び出したのは、“あの日”のことを聞こうと思ったんだ……」

「……まあ、そうだろうって思ったよ。まったく、誰に聞いたんだか。よりによってここに呼び出すなんてな。
――しんのすけ、ちょっと冗談が過ぎるぞ」

風間くんは、ようやくオラの方を向いた。
一つは、オラの用件が予想通りだったことから、開き直ったのかもしれない。

……ここは、ぼーちゃんが、ひまわりと風間くんを見た公園だった。

「……聞くも何も、普通の話だよ。付き合っていた彼女から、僕がフラれた。
――ただ、それだけのことさ。聞いても、つまらない話だよ」

風間くんは、淡々と話す。
それは間違いない。だが、それだけじゃない。風間くんは、話を早く終わらせようとしている。
つまりは、オラに話しにくい何かがあるということ。

「……風間くん、友人としてお願いするよ。あの日、何があったの?」

「……」

「凄く言い辛いことかもしれない。だけど、話して欲しい。
それはきっと、オラが知らなきゃいけない、とても重要なことだと思うから……頼む……」

「………」

風間くんは、オラの目を見ていた。何かを探るように、確かめるように。
そんな彼を、オラは見続けた。視線を逸らさず、ぶつけた。

「……はあ。そう言えば、お前も強情だったな、しんのすけ……」

大きく息を吐いた風間くんは、諦めたように呟く。そして視線を前に戻し、目を細めて話し出した。

「……もう、聞いてるかもしれないけど。僕な、海外の支社を任せられることになったんだよ」

「……ああ、聞いたよ」

「だろうな。――ホント、大出世だよ。言わば、僕は支社長になれるんだ。
これまで頑張ってきた苦労が実ったんだ。こんなに嬉しいことはない。僕は、意気揚々と彼女――ひまわりちゃんに報告したんだ」

「………」

「そしたらね、彼女言ったんだ。“私は、どうなるの?”って。僕は、すぐに彼女が言わんとすることが分かったよ。
……彼女は、本気だったんだ。本気で僕と、一生添い遂げるつもりだったんだ。だから僕が海外に行くことに対して、自分はどうなるのかって聞いてきたんだよ。
本当に、嬉しかったな。海外の支社を任され、好きな女性に本気で想われて……人生で、最高の瞬間だった」

風間くんは、少し照れるように話していた。……でも、その顔は長くは続かなかった。すぐに視線を落とし、呟くように話した。

「――しんのすけ、これから先は、怒らずに聞いてほしい」

「……分かった」

オラの返事を待って、風間くんは切り出す。力強く。はっきりと。

「……彼女の想いに触れて、僕は決めたんだよ。一生、彼女を大切にしよう。添い遂げようって。
――だから僕は、彼女にプロポーズしたんだ。――結婚を、申し込んだんだよ」

「………」

雨は、更に激しさを増していた。

「そしたらさ、見事にフラれたよ。僕の思い違いだったみたいだ。……まったく。カッコ悪い話だよな、ホント……」

彼はそう話しながら、苦笑いを浮かべていた。

だけど、オラは気になっていた。
ひまわりは、なぜ風間くんとの別れを選んだのだろうか……。
彼女の想いは、オラが見ても分かるくらい本気だった。にも関わらず、彼女は別れを選んだ。

……その理由は、容易に想像出来た。
だからこそオラは、両手を握り締めた。握る拳は震える。我慢するのに、必死だった。

「……風間くん。ひまわりは、なんて言ってた?」

「……」

「……教えてくれ。風間くん……」

風間くんは、少し躊躇していたようだ。それでも、話してくれた。

「……彼女が言ったのは……」

「………」

「―――――、―――――」

「………」

風間くんの言葉は、囁くように、静かにオラの耳に届いた。
雨音は激しく響く。だけど彼の声は、それを潜り抜け、やけにはっきりと聞こえた。

(………クソ……)

思わず、そう思った。
それは、オラ自身に対する言葉だった。

風間くんと別れ、オラは家路につく。
雨は一段と強く降り注いでいたが、オラには傘をさす気力すらなかった。

(……ひまわり……)

ずぶ濡れになりながら、雨の中に彼女の姿を思い浮かべる。
大切な家族。大切な妹。
いつも明るく、笑顔を向ける彼女。
……オラの、たった一人の、家族……

「………」

無言で、玄関の扉を開ける。

「――おかえりー」

ドアの音を聞いたのか、ひまわりは奥から出て来た。

「うわっ!ずぶ濡れじゃない!お兄ちゃん、傘持っていかなかったの!?」

雨に濡れたオラに、ひまわりは驚いていた。
しかしオラの耳は、彼女の言葉を素通りさせる。

ひまわりの顔を見た瞬間、風間くんの言葉が脳裏に甦っていた。

―――彼女、泣きながら言ってたよ。“お兄ちゃんを一人には出来ない”って―――

「……ひまわり……」

無意識に、口が動いた。

「うん?なぁに?」

一度目を閉じ、頭の中の想いを整理する。
ひまわりの言葉、顔……そして………

「――この家を、出ていけ………」

「……え?お、お兄ちゃん……?」

「聞こえなかったのか?――この家を、出るんだ」

「……!」

ひまわりは顔を青くし、激しく動揺しているようだった。
それも当たり前だろう。
ひまわりとはケンカをすることはあっても、ここまでの言葉を口にしたことはない。
にも関わらず、ケンカらしいケンカもしていない今、唐突にそう言われて混乱しているのだろう。
なぜ、オラがそんなことを言ったのか分からない。
なぜ、そう言われたのか分からない。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……きっと彼女の頭のなかは、そればかりが漂っているだろう。

気が付けば、彼女は涙を流していた。

「……ひまわり……今日、風間くんと会ったよ」

「……!」

「プロポーズ、断ったそうじゃないか……なぜだ?」

「……だ、だって……それは……」

「風間くんが、嫌になったのか?」

「そ、そんなんじゃないよ!……そんなんじゃ、ないけど……」

(……即答、か……)

これで、確信した。
それと同時に、言い知れぬ怒りのような思いが沸々と生まれていた。

「……悪いな。全部教えてもらったよ。風間くん、なかなか言わなかったけどな。
――ひまわり、オラを気遣って断ったんだろ?」

「――ッ!そ、それは……」

「――ふざけんなよッ!!!」

「――ッ!」

ひまわりは、体を震わせた。

「それでオラを気遣ったつもりか!?オラのためになると思ったのか!?
――オラを理由に使っただけじゃないか!!」

「ち、違う!」

ひまわりは、慌てて声を出す。

「――だって!私が風間くんと一緒に行ったら、お兄ちゃんが一人になるじゃない!
いつも私の横にいてくれて、励ましてくれていたお兄ちゃんがだよ!?
――そんなの……出来るわけないじゃない!」

「それがどうしたんだよ!勝手に同情してんじゃねえよ!!」

「同情なんかじゃない!たった一人の家族だよ!?
お父さんとお母さんが死んだときも!私が歩けなくなった時も!そして今も!
なんでお兄ちゃんばっかり、全部背負うの!?なんでお兄ちゃんだけが、我慢するの!?
――お兄ちゃんばっかり辛い思いをして……そんなの、絶対嫌ッッ!!」

「……」

「……」

……沈黙が、流れる。
外からの雨の音は、止むことはない。
ザーザー……ザーザー……涙を流すように、降り続いていた。

「……ひまわり……」

「……」

ひまわりは、ただ泣いていた。
オラの言葉が届いていないのか、それとも答えられないのか……それは分からない。
それでもオラは、彼女に話しかけた。

「……ひまわり、お前は勘違いをしているよ……。
オラはな、ただ、お前が笑っていられるようにしていただけなんだよ。
ひまわりの笑顔は、本物の太陽みたいなんだよ。
暖かくて、安心できて、いつも、オラを照らしてくれてる。
オラは、それに救われてたんだよ」

「……」

「……それなのに、ひまわりはオラのために辛い思いをしている。
それじゃ、ダメなんだよ。ひまわりが幸せじゃないと、オラも幸せになれないんだよ」

「……お兄ちゃん……」

「本当にオラのことを思ってくれるなら、幸せになれ。
たとえオラと離れることになっても、自分の幸せを掴むんだ。
それが、オラの願いだ。……いや、オラだけじゃない。それはきっと、父ちゃん、母ちゃんの願いでもある。
――ひまわりの家族全員の……お前を大切に思う人みんなの、願いなんだよ」
「……ひぐっ……ひぐっ……」

「――風間くんのところにいけ。
お前は、本当はそうしたいんだろ?……だったら、後ろを振り返るな。お前は、前だけを見るんだ。お前の幸せは、今目の前にある。それを、掴むんだ。
……オラは、後ろからそれを見てるからさ。どれだけ離れてても、ひまわりの幸せを見てるからさ。
そしたらきっと、オラも幸せになれる。
……だから、ひまわり。――この家を、出るんだ……」

「……あああ……あああ……うぁあああ……!」

ひまわりは、声を上げて泣いた。

それは、自分の中にある罪悪感を消し去るためだろうか。
彼女の中で、今オラは、足枷になっている。
それを外したことにより、彼女の中の何かが弾けたのかもしれない。
だけど、その涙の先には、必ず彼女の笑顔があると信じている。

だからオラは、ただ彼女を見ていた。泣き続ける彼女を見ていた。
――ふと、頬に何かがついているのに気付く。
触ってみれば、それはべたべたしていた。

(……なんだよ……なんでオラも泣いてんだよ……)

……それでも、手で触れたものは、とても暖かかった。

「……まったく……ここのところ、よく僕を呼び出すよな……」

コーヒーを飲みながら、風間くんはぼやいていた。

ここはとある喫茶店。そこに、オラは風間くんを呼んでいた。
そんなことを言いながらも、結局は来てくれるのは、本当に風間くんらしいと思う。

「ごめんごめん。ちょっと、話があったからね」

すると風間くんは、コーヒーカップをゆっくりと置き、改めて聞いてきた。

「……それで?なんの用?」

「ああ。……風間くんさ、ひまわりのこと、どう思ってる?」

「……え?」

「率直に、今の気持ちを聞きたいんだよ」

「……どうって……」

「……」

「……」

一度苦笑いを浮かべた風間くんだったが、彼はすぐにオラの目を見た。
そして、顔を引き締めて、改めて口を開く。

「――当然、好きさ。出来るなら、彼女と添い遂げたい――」

「……」

「……」

……彼の目に、嘘はなかった。
彼の視線は、どこかに逸れることもなく、ただ真っ直ぐオラに向けられていた。

「……よかった……」

「……?」

オラの呟きに、風間くんは首を傾げる。

「……風間くん、ちょっと来てよ」

「え?」

「いいからさ。付いて来て」

「……また、僕を連れ回す気か?」

「そんなんじゃないって。……ただ、あの日に戻るだけだよ」

「……どういうことだよ」

「いいからいいから」

「……」

少し、強引に風間くんを連れ出した。
彼は最後まで首を捻っていたが、今はそれでいい。
……とにかく、来てさえくれれば、それでいいんだ。

「――しんのすけ……ここって……」

オラが案内した場所で、風間くんは周囲をキョロキョロ見渡していた。
そこは、風間くんとひまわりが決別した場所。そして、オラが風間くんから全てを聞いた場所。

ひまわりの涙が流れた場所。オラの葛藤が生まれた場所。
――あの、公園だ。

前の日と違い、空は晴れ渡っていた。日射しが木々に降り注ぎ、そして木々は、必死に太陽に向かって葉を伸ばす。
少しでも光を掴むかのように。少しでも、温もりに近づくかのように。
……そう、太陽に、触れようとしているんだ。

「……風間くん、ほら……」

「……あれは……」

オラが指し示す方向に、風間くんは目を凝らす。
そしてそこにいた人物を見た時、彼は目を大きくして、名前を口にした。

「……ひまわり、ちゃん……?」

「……風間くん……」

「………」

公園の真ん中で、ひまわりと風間くんはお互いを見つめたまま、動かなかった。
何も言わず、ただ向かい合う二人。

――その姿はまるで、太陽と木々のようだった。

「………」

「………」

気まずいのだろうか。二人とも、全然動こうとしていない。

しばらく時間が経ったところで、ようやく風間くんが少しだけ顔をオラに向ける。
これはどういうことなんだ―――そう言わんばかりに、チラチラとオラの様子を窺う。
風間くんも、かなり混乱しているようだった。

「……やり直しだよ、風間くん」

彼に、助け舟を出す。

「……え?」

「あの日のやり直し。もう一度、ここから始めるんだ」

「……で、でも……」

「ひまわりにもあるんだよ。本当に言いたかった言葉が。キミにもあるはずだ。本当は聞きたかった言葉が。
この前は、ちょっと決断が早かっただけなんだ。きっとキミらは、同じ未来を見てるはずなんだ」

「……しんのすけ……」

「オラに出来るのは、ここまでだ。風間くん、キミさえ良ければ、もう一度伝えてほしい」

「……」

風間くんは何も言わない。だけど、その表情は、確かに何かを伝えていた。
そして彼の目は、不思議とオラを安心させた。

「……ひまわり。本当にオラのことを考えてくれるなら、お前が思うようにしろ。お前の願いを、口にするんだ」

「……お兄ちゃん……」

ひまわりは、潤んだ瞳でオラを見る。もしかしたら、まだ悩んでいるのかもしれない。
……だから、もう少し背中を押すことにした。

「……大丈夫。ひまわりがどういう返事をしても、お兄ちゃんはもう怒らないよ。
お兄ちゃんは、ずっとひまわりの味方だ」

「……うん……」

そしてオラは、その場を立ち去る。
オラが歩き出すと、二人はまたお互いを見つめ合っていた。

それからどういう話になったのか分からない。二人が、どういう言葉を送ったのか分からない。
……だけど、それはオラが干渉するべきではないことだろう。それに、きっと二人なら、オラなんか必要じゃない。必要ないんだ。
少し寂しくはあるけど、それでも暖かい。
どこかすっきりした気持ちを胸に、オラは家に帰った。

……それから1週間後、風間くんはオラの家に来た。
そして、彼はひまわりと一緒に、オラに結婚することを告げた。

「……そうですか……風間くんとひまわりちゃんが……」

会社の椅子にもたれかかっていたあいちゃんが呟く。

「式は、近親者だけでするって。あいちゃんにも招待状が届くはずだよ。かなり急な日取りだけど……風間くん、時間ないし……」

「……そうでしたね。風間くんは……」

ふと、あいちゃんは表情を伏せる。
祝福したいが、素直には出来ない……そう言った顔をしていた。

……風間くんは、間もなく海外へ出発する。
海外の支社では、しばらく忙しいだろう。新しく出来る支社なら、それも仕方ない。
おそらくは、数年……下手すれば、それ以上は帰らないだろう。

「……しんのすけさん。ひまわりちゃんが風間くんに付いて行くということは……」

「――あいちゃん。今は、二人を祝福しよう。そして、笑顔で見送るんだよ」

「……はい」

あいちゃんは、沈んだ表情のまま小さく頷く。

……ひまわりの結婚式は、間もなくだ。

~式当日~

「――しんちゃーん!」

外にいたオラへ、まさおくん、ねねちゃん、ぼーちゃんが声をかける。

振り返れば、そこには、スーツやドレスを着こなした、笑顔の三人が。
……笑顔、ということは、まさおくんは、まだねねちゃんの本当の気持ちを知らないようだ……

「ん?どうしたのしんちゃん?なんか顔に付いてる?」

まさおくんは、不思議そうな顔をしていた。

「……いや、なんでもないよ。それより、今日は来てくれてありがとう。ひまわりに代わって、お礼を言うよ」

「何言ってんのよ。風間くんとひまわりちゃんの結婚式じゃない。たとえ嵐が来ても来るわよ」

「うん。僕も、二人を見てみたい」

ねねちゃん、ぼーちゃんは笑顔で返事を返す。

「僕もだよ。……もちろん、次は僕だけどね……」

まさおくんはボソリと呟きながら、頬を染めてねねちゃんを見ていた。

(まさおくん……“知らぬは仏、見ぬが神”とは、よく言ったものだな……)

心の中でまさおくんに合掌をしながら、頭を一度下げた。

会場に来たのは、ねねちゃんだけじゃない。
ななこさん、園長先生、むさえさん……色んな人が、そこにいた。これまでオラ達が出会ってきた人たちが、笑顔でそこにいた。

この式は、かなりの急なスケジュールで開催されている。
それにも関わらず、これほどまで人が集まったことには、感謝してもしきれない。

(ひまわり……風間くん……。みんな、祝福しているよ)

思わず、青空を仰ぎ、準備をしているはずの二人に言葉を向けた。
それに応えるように、空には番いの鳥が、仲睦まじく飛び回っていた。

みんなが笑顔で見送る中、式は始まった。
白いタキシード姿の風間くんと、純白のウェディングドレスを着たひまわり……風間くんは、車いすのひまわりを後ろから押しながらバージンロードを歩く。

風間くんはさることながら、最初にひまわりの姿を見た時には驚いた。

ひまわは、とても綺麗だった。
これまで一番近くで見ていたはずだった。でも、目の前にいるのは、間違いなく一人の女性だった。
ずっと子供のように見ていたが……いつの間にか、彼女は大人になっていたようだ。

式が終わると、簡単なパーティーへと移る。
ひまわり達の結婚式が主ではあるが、どちらかというと、同窓会のようにも見える。

もちろんパーティーの中心にはひまわり達がいたが、それぞれの近況を報告し合い、酒を交わし、昔話に花を咲かせる……その光景には、温かみがあった。

それを満足そうに眺めていると、突然、会場が真っ暗になった。
ざわざわとする会場の中、スポットライトがオラとひまわりを照らし出した。

(……なんだ?)

会場中の視線を受ける中、車いすに座ったひまわりは、風間くんが持つマイクに向けて話す。

「……会場のみなさん。今日は、私達の結婚式に出席していただき、本当にありがとうございます。
――皆様には申し訳ありませんが、今日この場にいる、私の兄に、言葉を送りたいと思います。
少しの間、お付き合いください……」

会場中は、水を打ったように、静まり返る。全員が話を中断し、彼女に視線を送っていた。
その中で、ひまわりは手紙を手にし、静かに、囁きかけるように、読み始めた。

――お兄ちゃんへ。

お兄ちゃん、今日まで本当にありがとう。

考えてみれば、私はお兄ちゃんに甘えてばっかりでした。いつもお兄ちゃんにくっ付いて、泣いて、笑って、怒って、落ち込んで……それでもお兄ちゃんは、ずっと私を見てくれて……。

授業参観も、学芸会も、合唱コンクールも、卒業式も、入学式も……いつも、私を見てくれていました。
……本当に嬉しかった。

いつも泣きそうな時、傍にはお兄ちゃんがいてくれて、涙を拭ってくれました。そして言うんです。
“行こうか、ひまわり”――

座り込む私の手を掴んで、立ち止まる私を引っ張ってくれるんです。その手はとても暖かくて、とても安心できて……

ケンカした時も、次の日にはご飯を作ってくれてるんです。
不器用に、不愛想に笑いながら、美味しいか言ってくれるんです。

お兄ちゃん……あなたの妹で、本当に良かった。本当に幸せだった。
……今の私があるのは、お兄ちゃんのおかげです。

ずっと、大好きです。ありがとう、お兄ちゃん――――

――手紙の最後は、声に涙が混じり、うまく話せていなかった。
それでも、会場中が暖かい拍手に包まれていた。

オラは下を向き、ただ拍手を受ける。本当はひまわりに言いたかった。
お礼を言いたいのは、オラの方です――と。

でも流す涙を、彼女には見せたくなかった。最後まで、笑顔を向けていたかった。

それでも、少しだけ視線を彼女に向ける。

――ひまわりは、微笑んでいた。
優しい雫が伝う顔で、ただ優しく、オラの方を見ていた。

彼女は、やっぱり太陽だった。優しく照らしてくれる太陽だった。
何度もオラのを救ってくれた、勇気付けてくれた、光あふれる、向日葵だった……

……その後パーティーは、恙なく幕を下ろす。
そしてそれから2週間後、ひまわりは、風間くんと旅立っていった……。

――お兄ちゃんは、いつまでもお兄ちゃんだからね――

――しんのすけ、ひまわりちゃんは、必ず幸せにするよ。……男として、親友として、お前に約束する―――

空港での別れ際、二人はそう言っていた。
正直、何も心配はしていない。
あの二人なら、きっと幸せになれる……その確信が、なぜかオラにはあった。二人をよく知るオラだからこそ、そう思えた。

「……ふう。ちょっと休憩……」

家を片付けていたオラは、大きく体を伸ばす。
ひまわりの荷物は、ほとんど送っていた。彼女に部屋だった場所には、机とベッドしか残っていない。

「……」

少し、家の中を歩いて回る。
色々な思い出が詰まった、慣れ親しんだ家。
オラがいて、ひまわりがいて、父ちゃん、母ちゃん、シロがいた家……

(……こんなに、広かったっけ……)
たった一人の主を持つ家は、とても広く思えた。でもそれ以上に、とても静かだった。

(……ん?)

……ふと、柱の隅に傷を見つけた。柱の腰の位置ほどに付いた、古びた傷……
そして、昔のことを思い出した。

『――お兄ちゃん!ひま、大きくなったよ!』

『お?どれどれ……なんだ、まだ小さいじゃないか……』

『そんなことないもん!ひま、大きくなってるもん!もうすぐ大人だもん!』

『そうか?なら、記録でも付けておくか!』

オラは、大人になったのだろうか。ひまわりはどうだろう……

でも、彼女との想い出を振り返ると、自然と笑顔になれる。だったら彼女は、きっと、あの日話していた通りの大人になれたんだと思う。
――そしてそれは、オラが生涯、誇りに思えることだと思う。

(……父ちゃん、母ちゃん。これで、良かったんだよな。オラ、頑張ったよな。最後まで、ひまわりは笑顔だったよ。これなら、褒めてくれるよな……)

天井を見上げ、心の中で父ちゃん達に報告する。
大きく息を吸い込み、息を深く吐く。

胸の中は、どこか穴が空いているような気分だった。それでも、それ以上に暖かい。

「――よし!掃除を始めるかな!」

何かを奮い立たせるように、少し声を強く出す。そして、掃除に戻った。

――ピンポーン

「……ん?」

その時、ふと玄関からチャイムが鳴り響いた。

「誰だろう……」

掃除を一時中断し、玄関に向かう。そして鍵を開け、少し古くなった玄関を開けた。

「――はい」

「……こんにちは、しんのすけさん」

そこには、笑顔で会釈するあいちゃんがいた。

「あれ?どうしたのあいちゃん……」

「あら、私が来てはいけないんですか?」

あいちゃんは、少し意地悪な笑みを浮かべる。

「い、いや……そんなわけじゃないけど……」

戸惑っていると、彼女はクスリと笑う。

「……お邪魔しても、いいですか?」

「……あ、ああ。どうぞ」

そしてオラは、あいちゃんを家に招き入れた。

「――ずいぶん、片付きましたね」

あいちゃんは、そう呟きながら部屋を見て回る。

「まあね。オラの荷物、ほとんどないからさ。一人にはもったいないくらいの家だよ」

笑いながら、言ってみた。
するとあいちゃんは、なにか思ったように俯いた。

「……ん?どうしたの?」

「……い、いえ……それにしても、静かですね……」

「え?あ、ああ……そうだね……」

「……」

「……」

……なんだか、不思議な空気が部屋中に満ちる。

「……私で、よければ……」

しばらく俯いていた彼女は、小さな声で話してきた。

「え?」

「……私でよければ、ご一緒に……」

「……」

……また、部屋は静まり返った。オラも、下手に喋れなくなっていた。

二人揃って、居間に立ったまましばらく黙り込む。でも、何だかこのままじゃいけない気がした。
震える口に力を込めて、ゆっくりと口を開いてみる。

「……あ、あのさ……」

「……は、はい……」

「……今度よかったら、二人で――――」

―――プルルルル

「―――ッ!」

「―――ッ!」

突然、静かな部屋に電話の音が鳴り響く。体をビクリとさせたオラ達は、すぐに音の方を振り返る。

「……電話か……」

一度彼女に目をやる。彼女は、頬を桃色に染めて、困ったような笑みを浮かべていた。
何だか照れ臭かったオラは、少し重い足取りで電話に向かった。

「……はい、野原ですが……」

「――聞いてよしんちゃん!!」

受話器を耳に当てるなり、叫び声が耳を貫いた。
咄嗟に受話器を耳から離し、改めて話をする。

「……ま、まさおくん?」

「そうだよしんちゃん!――それより、聞いてよ!!」

まさおくんは、かなり慌てていたようだ。

「どうしたのさ、いったい……」

「あのね!僕、ねねちゃんに告白したんだ!!」

「……マジで?」

「マジだよ!大マジだよ!!そしたら、ねねちゃん、言ってきたんだ!“好きな人がいる”って!!!」

(……あちゃー)

思わず、手を頭に当て上を見上げた。

「とにかく、詳しい話はいつものファミレスで話すから!!すぐ来てよ!!―――ガチャリ」

まさおくんは、一方的に電話を切断した。

(……こりゃ、面倒なことになるぞ……)

まさおくんは、ねねちゃんが好き。でもねねちゃんは、ぼーちゃんが好き。
なるほど、とても面倒な構図になっている。高確率で、嵐が吹くだろう。

「……どうか、しましたか?」

気が付けば、あいちゃんが後ろに立っていた。

「……ああ、ちょっとまさおくんが相談があるって」

「まさおくんが?」

「うん。オラ、ちょっと行かなきゃ……」

「……そう…ですか……」

彼女は、残念そうに表情を暗くした。――かと思えば、すぐに明るい表情を浮かべる。

「……私も、ご一緒します!」

「え―――?」

彼女の目は、ただオラを見つめる。それを見ていたら、何だか笑みが溢れて来た。

「……うん、一緒に行こうか!」

「はい――!」

そしてオラ達は、玄関を飛び出していった。

……こうして、オラ達の日常は重ねられていく。

人生では、出会いがあって、別れがある。
でもその中で、きっと手に入れる素晴らしいものがある。それは心の中に残り、生きる力に代わるんだ。

――そしてまた人は前に進み、新たなものと出会うんだろう。

「――少し急ごうか!あいちゃん!」

「はい!しんのすけさん!」

オラは彼女と、街の中を駆けて行く。とても暖かくて、安らげる手を握りながら。

オラ達の物語は、これからも続いて行くのだろう。……いや、きっと今から始まるんだと思う。

――また新しい、物語が………。

END